城山町(しろやまちょう[3])は、鹿児島県鹿児島市の町。郵便番号は892-0853[5]。人口は1,433人、世帯数は775世帯(2020年4月1日現在)[6]。城山町の全域で住居表示を実施している[7]。
江戸時代から明治時代初期にかけて島津氏77万石の居城であり、薩摩藩の藩庁であった鹿児島城(鶴丸城)が所在している。1877年(明治10年)に勃発した士族反乱である西南戦争の最終決戦である城山の戦いが現在の城山町付近で勃発し、西郷隆盛らの敗北によって西南戦争は終結した。
城山町としては、1965年(昭和40年)に山下町・長田町の各一部より設置された[10]。
地理
鹿児島市中部、甲突川の下流域に位置する。町域の北方に長田町、南方に照国町、西方には新照院町・草牟田、東方には小川町・山下町がそれぞれ接している。
また、一般国道である国道3号、国道10号、国道225号及び国道225号に重複する国道226号は、城山町1番1にある照国神社前交差点をすべて終点としている。
南部には島津氏77万石の居城であった鹿児島城(鶴丸城)跡地があり、本丸の跡地には鹿児島県歴史・美術センター黎明館が、二の丸跡地には鹿児島県立図書館や鹿児島市立美術館・鹿児島県立博物館が所在している。城の北部には城山が所在しており、鹿児島城と併せて国指定史跡となっている。
山岳
町名の由来
南北朝時代の上山氏の居城、江戸時代の島津氏の居城である鹿児島城(鶴丸城)の後背地であり、城山と呼ばれたことに由来する。
歴史
前史
「城山」の名前は中世に地元の豪族・上山氏が山城を築いていたことに由来する。江戸時代になり、1601年(慶長6年)頃には島津忠恒(のち「家久」に改名)は、いくつかの候補地の中から城山の麓の地を選び、内城(現在の大竜町付近)に代わる新しい島津氏の本拠として鹿児島城(鶴丸城)を築いた。
1877年(明治10年)に薩摩藩士族らと明治政府(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍・警視庁)との間で勃発した西南戦争の決戦である「城山の戦い」が現在の城山町付近で勃発し、現在も西郷軍司令部の置かれた洞窟が残っているほか、北東部には西郷軍の総大将であった西郷隆盛が自決した地を示す「南洲翁終焉之地」の碑が存在しており、「西郷隆盛終焉の地」として鹿児島市の記念物(史跡)に指定されている。
城山町設置後
1962年(昭和37年)に住居表示に関する法律が施行されたのに伴い、鹿児島市は鹿児島市街地域の住居表示に着手した。1965年(昭和40年)7月20日には中央地区で住居表示実施に伴い町の再編が行われ、山下町及び長田町の各一部の区域より、新たに鹿児島市の町「城山町」として設置された[10]。
実施後
|
実施年
|
実施前
|
城山町(新設)
|
1965年(昭和40年)
|
山下町(一部)
|
長田町(一部)
|
文化財
城山町に所在している鹿児島県歴史・美術センター黎明館、鹿児島市立美術館において多数の文化財指定物件を所蔵していることから、多数の文化財の所在地となっている。
以下の一覧において※1は鹿児島県歴史・美術センター黎明館、※2は鹿児島市立美術館所蔵の物件であることを示す。
国指定
国登録
県指定
市指定
-
-
-
西南戦争で西郷軍が最後に立て籠もった西郷洞窟
-
西南戦争 西郷軍最後の進軍路
-
人口
以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の城山町の人口の推移である。
施設
公共
教育
その他
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[36]。
交通
道路
- 一般国道
-
関連する人物
死没地
脚注
参考文献
関連項目