ヒュー・ピーター・マーティン・ドネリー(Hugh Peter Martin Donnelly, 1964年3月26日 - )は、北アイルランド・ベルファスト出身のレーシングドライバー。
主なレースキャリア
フォーミュラフォード2000を経て、1986年からイギリスF3に参戦[1]。初年度にランキング3位を獲得するなど活躍を見せ、若手の有望株と目される。
1987年のマカオグランプリF3で優勝。それらの実績から、同年12月のエストリルF1合同テストに参加するベネトン・フォーミュラに呼ばれ、ベネトン・B187をテストドライブした[2]。
イギリスF3選手権に参戦していた1988年シーズン途中に、国際F3000選手権にステップアップ。これはジョーダン(EJR:当時はF3000のチーム)のジョニー・ハーバートが足に重傷を負ったことによる代役起用だったが、デビュー戦で勝利を挙げるなど2勝しランキング3位を獲得。'88年末にはキャメル・チーム・ロータスと翌年のテスト・ドライバー契約を結んだ。この契約は1992年末までのオプション付きという長期でのつながりをロータスが確保したもので、ドネリーの国際F3000デビューウィンをロータスが高く評価していることが伺われた[3]。翌1989年もEJRから国際F3000に継続参戦し、ジャン・アレジ、エリック・コマス、エリック・ベルナール、エディ・アーバインのライバルとして活躍。
F1
1989年フランスGPを指の骨折のため欠場したデレック・ワーウィックの代役としてアロウズからF1にデビューし、12位で完走した。なお、この代役出走はワーウィック本人がドネリーの起用をチームに提案し、ドネリーのF3000のスケジュールと重なっていなかったため実現した[4]。
翌1990年には、ロータスのレギュラーシートを手にするが、ロータス・102の戦闘力は低く、同期のアレジがティレル・019で躍進の一方で、苦しい戦いを強いられることとなった。第13戦ポルトガルGP消化時点で、最高位は第10戦ハンガリーGPにおける7位と、ポイントも獲得できていなかった。
大クラッシュ
ドネリーの事故が起きたコーナー(上図14番)。4輪レースでは事故後設置された
シケインを通過する。
第14戦スペインGP(ヘレス・サーキット)の金曜日フリー走行で10位の好タイムをマークした。当日の朝には、来シーズンは500万ドルを受け取ってチームのナンバー1ドライバーになり、ミカ・ハッキネンをナンバー2に迎えるという契約に合意していたという[5]。期待のかかる状態で午後の予選1日目を迎えたが、予選終了8分前にタイムアタックをしていたドネリーはピット裏のエンツォ・フェラーリ・コーナー手前の右高速コーナーでマシンが粉々になる大クラッシュを起こす。
6速全開で抜けるその右高速コーナーを時速250kmで走行中、左フロントサスペンションが壊れ、外側ガードレールへ直角に近い角度で激突。テレメトリーデータでは激突時の時速は140マイル(約225km/h)、42Gの衝撃が発生した[5]。カーボンファイバー製モノコックの前半分は粉々に粉砕され、ドネリーはシートベルトを締めたシートごとコースに投げ出された。手足の関節は異なる方向に曲がり、コースに横たわり身動きしないドネリーの姿は、関係者・視聴者に大きな衝撃を与えた。グランプリドクターのシド・ワトキンス医師の応急処置を受け、ヘリコプターでセビリアの病院へ搬送されたが、左足を膝の上下で複雑骨折、右足膝下骨折、右ほお骨、鎖骨など全身の数箇所を骨折し、内臓破裂(特に右肺が大きなダメージを受けていたため呼吸に支障があった)に伴い一時は危篤状態となった[6]。心臓が3度停止し[5]、ドネリーの母親は臨終の儀式のため地元の司祭を病院へ連れてきた[5]。最終的には一命を取り留め、ロンドンの病院へ移り、6週間人工呼吸器を付け、1カ月間腎臓透析を受けた[5]。
当時ロータスは資金難に苦しんでいた。彼の乗っていた102シャシーのモノコックは既に一万キロ以上を走行していたともいわれ、疲労した車体を換えることもままならないなかでのレース参加であった。チーフデザイナーのフランク・ダーニーは当該シャシーを調査後、クラッシュの原因は左フロント・サスペンションのプルロッド・ロッカーアームの不具合の可能性を示唆した[6]。
なお、同僚のデレック・ワーウィックが、事故発生時、極めて自己中心的な性格と言われたネルソン・ピケが、コース上に横たわるドネリーの前にマシンを停め、後続車に轢かれないように守ったり、他人に寸毫の容赦もないドライブをすると評されたアイルトン・セナが、ドネリーの姿を撮ろうと群がるカメラマンを追い払ったりする様子に、「彼等の人間らしい別の一面を見た」と述懐している。
事故後
事故後、日常生活を営めるレベルまでには回復したが、左足は右足より1インチと5/8短くなり、関節の曲げ伸ばしに障害が残った[5]。ドネリーはリハビリや再手術を行いながら復帰を目指した。かつてニキ・ラウダのカムバックを手助けした医師に会うためオーストリアへ向かい、ラウダはラウダ航空のシートを無償で用意してくれた[5]。1993年6月には、エディ・ジョーダンがドネリーと約束していたというF1マシンドライブの機会を設け[7]、シルバーストーン・サーキットでジョーダン・192シャシーにハート・1035エンジンを搭載したマシン[8]を走らせている。しかし、5秒以内にコクピットから脱出するというテストに合格できず、レーシングドライバーとして復帰することはできなかった。その後はストレスなどから事故後にドネリーを看病した妻とも亀裂が入り、離婚に至っている。
1995年頃、自身のチーム「マーティン・ドネリー・レーシング」を立ち上げ、F3やフォーミュラ・ヴォクスホール等にも参戦。
現在はフォーミュラ・ルノー3.5などに参戦する英国の「コムテック・レーシング」で、ドライバー育成担当マネージャーの職についている。また、F1のスチュワード(競技審査委員)を担当することもある。
2011年、英国のモータースポーツイベント「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」で、クラシック・チーム・ロータス(CTL)がレストアしたロータス・102を21年ぶりにドライブし、ヒルクライムに出場した[9]。
2019年7月、チャリティーライドに参加した際モペットで転倒し、古傷がある左足をさらに痛めてしまい、医師からは切断しなければならなくなる可能性を聞かされた[5]。ドネリーを支援するため「GoFundMeキャンペーン」が立ち上げられ、5万ユーロ以上の寄付金が集まった[5]。
レース戦績
略歴
イギリス・フォーミュラ3選手権
国際F3000
全日本F3000
フォーミュラ1
イギリス・ツーリングカー選手権
脚注
関連項目
- 武藤英紀 - レーシングドライバー。かつてマーティン・ドネリー・レーシングに所属。
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※年代と順序はチーム・ロータスで初出走した時期に基づく。 ※太字はチーム・ロータスにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。 |
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