ボイシ (USS Boise, CL-47) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。ブルックリン級軽巡洋艦の6番艦。艦名はアイダホ州の州都ボイシに因む。公刊戦史『戦史叢書』など日本ではボイス[2]やボイズと表記することもある。
概要
ブルックリン級軽巡洋艦の6番艦で、1938年8月に竣工した。太平洋戦争開戦時はフィリピンに配備されており、アジア太平洋艦隊として日本軍の南方作戦を迎え撃つ。だが1942年(昭和17年)1月21日に座礁し、修理のため戦線を離脱した。その後は、船団護衛任務に従事した。ガダルカナル島攻防戦たけなわの同年10月11日から12日にかけて、ボイシは第64任務部隊として[注釈 1]日本軍の巡洋艦部隊[注釈 2]と交戦、大破した(サボ島沖海戦)。
修理完了後の1943年6月から大西洋および地中海方面に転じ、おもにイタリア戦線で活動した。1944年になるとキンケイド提督の第7艦隊に配備され、ダグラス・マッカーサー大将が指揮するニューギニア島北部の作戦に従事した。5月下旬にはビアク島攻防戦に参加し、6月8日夜から9日にかけて日本軍駆逐艦と交戦した(渾作戦)。10月中旬以降のフィリピン攻略戦では、10月25日未明にスリガオ海峡で西村艦隊を迎撃した(スリガオ海峡夜戦)。つづいてミンダナオ島の作戦を支援した。
1945年1月初旬のルソン島の戦いでは、マッカーサーがリンガエン湾に上陸するまで臨時旗艦となった。5月になるとボルネオの戦いに従事し、終戦を迎えた。1951年1月にアルゼンチンへ売却され、ボイシはヌエベ・デ・フリオ (ARA Nueve de Julio, C-5) と改名された。1978年に退役後、1983年に解体された。
艦歴
戦前
ボイシはバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1936年12月3日にサロメ・クラーク(アイダホ州知事バージラ・W・クラーク(英語版)の娘)によって命名、進水し、1938年8月12日に艦長ベンジャミン・ヴォーン・マッキャンドリッシュ大佐の指揮下就役した。
1939年2月、モンロビア、リベリア、ケープタウンへの整調巡航後、ボイシはカリフォルニア州サンペドロで第9巡洋艦分艦隊に配属される。1941年11月まで西海岸およびハワイ水域で交互に活動した。その後、ボイシはフィリピンのマニラに向かう5隻の輸送船を護衛した。11月28日、サイパン島東方海域で思いがけない出会いがあった。横須賀を出発し、トラック諸島経由でクェゼリン環礁に向かう途中だった第六艦隊旗艦の軽巡洋艦香取(司令長官清水光美中将座乗)とすれ違ったのである[14]。本艦は練習巡洋艦にすぎない香取より圧倒的に優勢であったが、双方とも狼狽した。ボイシは全ての砲塔を香取に向けつつ、煙幕を張って輸送船団を隠した[14]。香取はボイシと輸送船団が見えなくなってから、ボイシとの遭遇を打電した[14][注釈 3]
12月4日、ボイシはルソン島マニラに到着した。情勢は緊迫していた[注釈 4]。
第二次世界大戦
開戦 - 1942年中旬
1941年12月7日(日本時間12月8日)の太平洋戦争勃発時、ボイシはセブ島沖にあった。日本軍は比島作戦において航空撃滅戦を優先する。アジア艦隊(英語版)(司令長官トーマス・C・ハート提督)は潜水艦を除く大部分の艦艇を蘭印やオーストラリア方面に避退させた。マニラにいた第5任務部隊司令官のグラスフォード(英語版)少将は空路でパナイ島南岸のイロイロに移動し、そこで重巡ヒューストン (USS Houston, CA-30)に将旗を掲げた。またセブにいたボイシも呼び戻され、ヒューストンに合流する。ヒューストンとボイシはスールー海を南下し、マカッサル海峡に向かった。
ボイシは東インド諸島で第5任務部隊に加わり、アジア太平洋艦隊の軽巡洋艦マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) に合流する[注釈 5]。
1942年1月11日、日本軍は蘭印作戦によりボルネオ島北東部タラカン島に上陸し、翌12日に守備隊は降伏、掃討作戦、油田占領、飛行場設営を実施した。
連合軍は日本軍の次の目標を同島東岸のバリクパパンと予測し、潜水艦部隊を配置した。さらに1月20日、第5任務部隊司令官のグラスフォード少将に出撃を命じ、グラスフォード少将はボイシに将旗を掲げた。第5任務部隊(軽巡ボイシ、軽巡マーブルヘッド、駆逐艦ジョン・D・フォード(英語版)、ポープ、パロット、ポールジョーンズ)はティモール島クパンを出撃する。この第5任務部隊が、現時点で連合軍艦隊が攻勢的作戦に使用できる、精一杯の勢力だった[30]。目標はバリクパパン沖に集結した日本の輸送船団と護衛部隊(指揮官西村祥治第四水雷戦隊司令官)である。しかし、ボイシは1月21日にセプ海峡(英語版)で海図未記載の暗礁に衝突し、マーブルヘッドも機関不調で後退して後退、バリクパパン沖海戦には参加できなくなった。同海戦で活躍したのは、軽巡2隻脱落後も進撃を続けた駆逐艦4隻だった。
ボイシはコロンボおよびボンベイで応急修理の後、メア・アイランド海軍造船所へ向かった。修理が完了すると6月22日に出航し、船団護衛でニュージーランドのオークランドに向かう。護衛任務終了後は真珠湾に帰投し、ガダルカナル島上陸に際して日本軍を攪乱する目的で7月31日から8月10日まで日本の勢力圏内を巡航した。8月にはフィジーおよびニューヘブリディーズ諸島への輸送船団を護衛し、9月14日から18日までガダルカナル島へ上陸する海兵隊の支援を行った。
サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)
10月11日深夜から12日未明に行われたサボ島沖海戦(連合軍呼称エスペランス岬沖海戦)は、ガダルカナル島攻防戦の中における一つの頂点である。南太平洋部隊司令官ロバート・L・ゴームレー中将は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に突かれる形で[35]、ニューカレドニアからアメリカル師団一個連隊をガダルカナル島に送り込み、同時に「東京急行」を阻止する艦隊を出撃させる[36]。
東京急行の「脱線」の命を受けたアメリカ艦隊(空母ホーネット部隊、戦艦ワシントン部隊、巡洋艦部隊)のうち、ノーマン・スコット少将が指揮する巡洋艦部隊は「攻撃的行動を執って輸送船団を保護せよ」と命じられた。スコット少将は重巡洋艦サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38) を旗艦とし、重量艦はサンフランシスコのほかに重巡ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25)、軽巡洋艦ヘレナ (USS Helena, CL-50) 、そしてボイシがいた。第64任務部隊は10月7日にエスピリトゥサント島に集結し、2日後にレンネル島近海に到着して警戒しつつ待機した。10月9日にヌーメアを出発した連合軍輸送船団(歩兵一個連隊)がガ島に接近しつつあり、既述のように輸送船団の安全も確保せねばならなかった。
日本軍にとってもヘンダーソン飛行場は脅威であった[39][40]。日本軍のラバウル航空隊が来襲すると、沿岸監視員の通報により、連合軍の航空機は上空へ退避してしまう[40]。
第十七軍の総攻撃を今度こそ成功させるため、日本軍は水上機母艦日進と千歳および護衛駆逐艦(朝雲、夏雲、秋月、白雪[注釈 6]、叢雲、綾波)による重火器輸送、金剛型戦艦と重巡洋艦によるヘンダーソン飛行場砲撃、高速輸送船団による大規模輸送を計画した[43]。第三戦隊(金剛、榛名)の飛行場砲撃に先だって、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)による飛行場砲撃を行うことになった。
10月11日、まずラバウル航空隊の零戦と一式陸上攻撃機がヘンダーソン基地に空襲をおこなった。午前8時20分、日進輸送隊(日進、千歳、駆逐艦部隊)はショートランド島南東30浬で連合軍大型機に発見された。午後8時10分、先行していた日進輸送隊はガダルカナル島タサファロング泊地で揚陸を開始した。午後8時45分には連合軍機らしきものが日進隊上空を通過し、午後9時には飛行機がルンガ泊地海面を照射するのを認めた。
第64任務部隊には、B-17から情報が入ってきた。日本艦隊(巡洋艦2隻、駆逐艦6隻)が「スロット」と呼ばれるコースを通って接近しつつあることを報告し、日本艦隊には輸送船団は付属しておらず、ヘンダーソン飛行場砲撃を狙ってきた部隊と推定された[35]。既述のように、ガ島に接近中の日本艦隊は2つ(高速輸送部隊/日進隊、飛行場砲撃部隊/外南洋部隊支援隊)であり、B-17が報告したのは日進輸送隊(水上機母艦2隻、駆逐艦6隻)であった。
第64任務部隊は飛行場砲撃部隊(本当は東京急行)を妨害すべく、レンネル島沖合からガダルカナル島とサボ島間の海域(鉄底海峡)に移動した。第64任務部隊の弱点は、スコット少将が新型レーダーのSGを装備したヘレナを旗艦とせず、旧式レーダー搭載のサンフランシスコを旗艦にしていたことだった[51]。
10月11日真夜中(日本時間午後9時45分以降)、第64任務部隊と外南洋部隊支援隊はガダルカナル島のエスペランス岬北方海域で交戦した。第64任務部隊は東京急行(日進隊)を見逃し、飛行場砲撃部隊(外南洋部隊支援隊)と交戦したのである。第64任務部隊は丁字戦法をとり、「前方に出現したのは敵艦隊だろうか、それとも日進隊であろうか。艦影は日進に似ているようだが」と確信をもてない外南洋部隊支援隊に対して有利な態勢となった。第64任務部隊側も、最新レーダー搭載のヘレナが報告した目標の位置と、ボイシが報告した位置に相当の差異があり、スコット少将を混乱させた。
錯誤と幸運の末に第64任務部隊は先手をとり、初弾が単縦陣の先頭を行く重巡洋艦青葉の艦橋を貫通して幹部を殺傷、支援部隊指揮官・五藤存知少将に致命傷を負わせた[注釈 7]。青葉の右舷前方にいた駆逐艦吹雪も、集中砲火を浴びて轟沈した。大破した青葉は面舵に転舵して煙幕を展開し、2番手の重巡古鷹が先頭に立った。古鷹は果敢に砲撃したが、火災が第64任務部隊の良い目標となって集中砲火を浴び、航行不能となって12日未明に沈没した[注釈 8]。
ボイシは古鷹と交戦し、つづいて健在の重巡衣笠および駆逐艦初雪と砲撃戦を行う。ボイシは前部主砲群(1、2、3番砲塔付近)に直撃弾を受け大破し、前部火薬庫にも直撃弾があった。浸水により主砲弾薬庫への誘爆は防げたが、多数の死傷者を出す。107名が死亡、35名が重傷を負った。ソルトレイクシティが衣笠とボイシの間に割り込み、ボイシは危機を脱した。だがソルトレイクシティも被弾して機関部で火災が発生した。前衛の駆逐艦ダンカン (USS Duncan, DD-485) とファーレンホルト(英語版) (USS Farenholt, DD-491) は敵味方両部隊の間に迷い込んで双方から砲撃され、ファーレンホルトが大破、ダンカンが沈没した。大破したボイシはエスピリトゥサント島で応急修理をおこなったあと、フィラデルフィア海軍造船所に回航され、11月19日から1943年(昭和18年)3月20日まで修理が行われた。
1943年 ヨーロッパ戦線
修復なったボイシは6月8日に地中海に向けて出航し、6月21日にアルジェリアのアルジェに到着した。7月10日から8月18日までシチリア島上陸作戦において支援艦砲射撃を行う。9月にはイタリア戦線にはせ参じ、ターラント(9月9日、10日)およびサレルノ(9月12日 - 19日)でのイタリア本土上陸を支援した後、11月15日にニューヨークに向けて出航。その後再び南太平洋に向かい、12月31日にニューギニアのミルン湾に到着した。
1944年 ニューギニア戦線
1944年の1月から9月までのボイシは、主にニューギニア島の北部海岸沿いで、南西太平洋連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー大将の作戦に参加した。この方面で活動していたアメリカ海軍は、マッカーサー大将の指揮下で行動する第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)であった。本艦は、姉妹艦フェニックス (USS Phoenix, CL-46) やナッシュビル (USS Nashville, CL-43) などと共に、ニューギニアの戦い(飛び石作戦)に従事する。その中にはマダンへの砲撃(1月25日、26日)、ホーランジアの戦いにともなうフンボルト湾上陸作戦支援(4月22日)、ワクデ島砲撃(4月29日、30日)およびワクデ島上陸(5月15日 - 25日)、ビアク島上陸(5月25日 - 6月10日)、ヌムフォア島(英語版)上陸(7月1日、2日)、サンサポア岬上陸(7月27日 - 8月31日)、モロタイ島占領(9月1日 - 30日)が含まれる。
5月27日から始まったビアク島攻防戦で、ボイシはサボ島沖海戦で砲火を交えた重巡青葉と同じ海域で行動することになった。連合軍のビアク来襲に驚いた連合艦隊は渾作戦を発動し、南方軍の海上機動第二旅団を海軍艦艇でビアク島に強行輸送することになった。
ミンダナオ島ダバオに集結した渾部隊の指揮官は第十六戦隊司令官左近允尚正少将で、青葉に将旗を掲げていた[注釈 9]。渾部隊は6月2日夕刻にダバオを出撃したが、B-24に触接されたり、米軍機動部隊(ボイシなどの巡洋艦部隊を誤認)出現等の情報により、ビアク行は中止となった。戦艦扶桑や第五戦隊はダバオに引返し、青葉など輸送隊のみニューギニア島西パプア州のソロンに進出した。6月4日と5日には小数機の日本軍機が連合軍巡洋艦部隊(巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃し、ナッシュビルが至近弾で損傷した。
連合艦隊は第二次渾作戦を発動し、左近允少将は青葉から駆逐艦敷波(第19駆逐隊)に旗艦を変更した。輸送部隊6隻(輸送隊〈敷波、浦波、時雨〉、警戒隊〈春雨、白露、五月雨〉)を率いて6月8日午前3時にソロンを出撃したが、B-25の空襲で春雨が沈没した。日本軍輸送部隊は尚もビアク島にむけて進撃を続けたので、ボイシなど連合軍巡洋艦部隊は夜戦で迎え撃った。重巡1、軽巡2、駆逐艦14隻を擁する連合軍側は圧倒的優勢だったので[注釈 10]、渾部隊(駆逐艦5)は直ちに反転して逃走を開始した。ボイシなど巡洋艦部隊は渾部隊を追撃したが、戦果は時雨を小破させただけだった。
第二次渾作戦が失敗すると、連合艦隊は大和型戦艦を渾作戦に投入した。第三次渾作戦部隊は6月12日にハルマヘラ島バチャン泊地に集結した[注釈 11]。ボイシなど巡洋艦を主戦力とする第七艦隊にとって、大和型戦艦の出現は重大な脅威として受け止められた。だが6月13日にサイパン島方面の情勢が急変する。渾作戦は中止され、第三次渾作戦部隊の主力は北上して「あ号作戦」に復帰した。青葉を含む第十六戦隊もシンガポール方面に後退した[95]。
フィリピン戦線
マリアナ沖海戦の勝利により、マッカーサー部隊に対する日本軍の圧力は消滅した。マッカーサー軍はモロタイ島を攻略したあとフィリピンに迫った。ボイシもフィリピン攻略作戦に加わり、レイテ島上陸(10月20日 - 24日)を支援した。
10月25日未明のスリガオ海峡海戦におけるボイシは、フェニックス、豪州海軍の重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) 、駆逐艦6隻と共にラッセル・S・バーキー(英語版)少将の第77.3任務群に属していた。
第77.3任務部隊はジェシー・B・オルデンドルフ少将の第77.2任務群と共同して、第一遊撃部隊第三部隊(指揮官西村祥治第二戦隊司令官、通称西村艦隊)を迎え撃った。西村艦隊には、渾作戦に出動した戦艦扶桑も含まれていたが、ボイシと交戦するまえにアメリカ軍駆逐艦の雷撃で駆逐艦満潮と山雲と一緒に沈んでしまった。最初の魚雷攻撃を生き残った西村艦隊3隻(戦艦山城、重巡最上、駆逐艦時雨)がスリガオ海峡を北上してきたので、第77任務部隊は丁字戦法で邀撃した。ボイシは山城に砲撃を加えた。さらに僚艦と共に砲雷撃を浴びせて山城を撃沈したものの、最上と時雨を取り逃がした。また味方の駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が第77任務部隊の巡洋艦に誤射されて大破した。夜明けが近づく頃、第77任務部隊の巡洋艦と駆逐艦は、艦首を失っていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた[注釈 12]。
その後、ボイシはミンドロ島上陸(12月12日 - 17日)および礼号作戦への迎撃行動(12月26日 - 29日)に従事した。
1945年以降
1945年に入ってルソン島の戦いではリンガエン湾上陸(1945年1月9日 - 13日)の後31日まで支援活動を行い、さらにマッカーサー元帥の「故地」バターン半島・コレヒドール島の占領(2月13日 - 17日)、ミンダナオ島のサンボアンガ上陸(3月8日 - 12日)に参加した。1945年(昭和20年)1月4日、マッカーサーはボイシに乗り込み、ルソン島西岸のリンガエン湾にむけて出撃した。5日には日本の特殊潜航艇に雷撃されたが、魚雷は命中しなかった[112]。マッカーサーによれば、ボイシが魚雷を回避したあと護衛の駆逐艦が爆雷を投下し、豆潜水艦が数隻浮上してきた。それを駆逐艦が体当たりして沈めたという。また空襲を受けたが、対空砲火で撃退した。
日本側記録では、セブ島の第三十三特別根拠地隊(司令官原田覚少将)が特殊潜航艇甲標的を運用しており、同部隊は1月5日に甲標的3基を出撃させ、1基が未帰還となった[注釈 13]。連合軍側記録では、駆逐艦テイラー (USS Taylor, DD-468) が体当たりと爆雷攻撃で特殊潜航艇1隻を撃沈している。甲標的部隊は「駆逐艦と艦種不明各1隻撃沈、巡洋艦1隻撃沈」と記録した。
ボイシは続いてボルネオの戦いに参加し、タラカンの戦い(英語版)(4月27日 - 5月3日)のためボルネオ島近海に移動した。6月3日から16日までボイシにはマッカーサーが座乗し、中央、南部フィリピンおよびブルネイ湾を合計35,000マイル巡航した。ボイシはサンペドロに向かい、7月7日に到着した。
ボイシはサンペドロに留まり、10月までオーバーホールおよび訓練が行われた。10月3日に東海岸に向けて出航し、10月20日にニューヨークに到着する。ボイシは第二次世界大戦の戦功で11個の従軍星章を受章した。ボイシは大戦終結翌年の1946年7月1日に退役した。
アルゼンチン海軍時代
1951年1月11日、ボイシはアルゼンチンに売却され、ヌエベ・デ・フリオ(スペイン語版、英語版) (ARA Nueve de Julio,C-5) と改名された(「7月9日」の意。アルゼンチンの独立記念日。)[注釈 14][注釈 15]。就役後にオランダ製レーダーの装着とヘリコプター2機の搭載が行われた。ヌエベ・デ・フリオは1955年9月19日、海軍と陸軍によるクーデターでマル・デル・プラタの給油施設およびその他の目標に砲撃を行った。ヌエベ・デ・フリオはその後も任務に留まり、1978年(昭和53年)に退役。部品は姉妹艦ヘネラル・ベルグラノに流用されたという。武装撤去後にスクラップとして1983年に廃棄された。
脚注
注釈
- ^ 第64任務部隊第2群(司令官ノーマン・スコット少将)
- ^ 外南洋部隊支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)
- ^
一.形勢(中略)十二月二日對米英蘭開戰日ヲ十二月八日トシ開戰日ノ下令アリ 此ノ間米國ハ
菲島方面ニ對シ潜水艦ヲ増勢シ十一月二十一日ニハ總計隻数從來ノ十五隻ヨリ二十五隻ニ達シタルノ情報アリ 又 二十四日在上海米國「マリン」ノ引揚ヲ始メトシ
砲艦二隻ノ
揚子江引揚ヲ行ヒ台湾南部方面ニテハ國籍不明ノ潜水艦及軍艦ノ北上ヲ認メ或ハ又飛行機ノ窺フモノアルヲ認ムルニ至レリ
軍艦香取ハ十一月二十九日「サイパン」ノ東方約一六〇浬附近ニテ「ブルツクリン」型巡洋艦一隻 輸送船五隻ヲ護衛シテ西航スルヲ認メ在パラオ東港航空隊ハ哨戒飛行中十二月四日「パラオ」ノ北東五〇浬附近ニ潜没中ノ潜水艦ラシキモノ二隻「パラオ」ノ西方約二〇〇浬附近ニ潜没中ノ潜水艦航跡二條ヲ認ムル等豫定作戰海域方面事態ハ次第ニ急迫シ來レリ
英國又極東ニ主力艦ヲ増派シ十一月二十四日英戰艦「
プリンスオブウエールス」
新嘉坡入港ノ報アリ/越エテ十一月二十七日英戰艦「
「キングジヨージ」五世「
リペンジ」「
リナウン」亦
印度洋東部ニ行動中ナルコト判明セリ/斯クテ聯合艦隊各隊ハ各展開配備地点ニ進出シ大命降下作戰開始期日ノ到ルヲ待ツノ態勢ニアリ(以下略)
— 菲島部隊南菲支援隊戰闘詳報(自十二月六日 至十二月十六日)[16]
- ^
十二月七日迄ニ得タル敵情左ノ通
[17]
- (1).敵ハ南支那海方面五機「ダバオ」方面一機ヲ以テ海上哨戒ヲ實施シ「マララグ」湾方面ニハ「ラングレー」ニ代リニ「プレストン」又ハ「チャイルド」所在シアルモノノ如シ(軍令部情報)
- (2).米甲巡「ヒューストン」ハ十二月三日「イロイロ」ニ入港陸戰隊三〇〇名ヲ揚陸セリ(「マニラ」領事館)
- (3).「マニラ」ハ六日ヨリ小學校ヲ閉鎖シ一部市民ノ避難ヲ開始セリ(外電ニュース)
- (4).六日「マニラ」在泊艦(總領事報)「ホノルル」型巡洋艦一隻、駆逐艦三隻、潜水艦九隻、潜母ホーランド、給油艦二隻、敷設艦一隻 六日「カビテ」在泊艦「ラングレー」
- (5)東港空飛行艇ノ偵察ニ依レバ南菲海岸(ダバオ湾、サランガニ湾、パラン湾ヲ含ム)ニハ敵艦船ヲ見ズ
- ^ マーブルヘッドは11月下旬時点でタラカン島に移動していた。
- ^ 駆逐艦白雲は鼠輸送実施中の8月28日に空襲を受け航行不能となり、サボ島沖海戦の時は内地で修理中であった。
- ^ 五藤少将は手当を受けたが、戦場から離脱する青葉の艦上で死亡した。
- ^ 古鷹は水線下への被弾で浸水が拡大し、転覆沈没に至った。生存者は反転して戻ってきた駆逐艦初雪に救助された。
- ^ * 輸送隊:青葉、鬼怒、駆逐艦、輸送艦艇
- 警戒隊:妙高、羽黒、駆逐艦4
- 間接護衛隊:扶桑、風雲、朝雲
出典:。
- ^ 6月8日昼間(18時24分発)の航空偵察では「戦艦4、巡洋艦4、駆逐艦8」。渾部隊は「戦艦1、巡洋艦4、駆逐艦8と交戦」と報告した。実際は豪州重巡1、軽巡2(フェニックス、ボイシ)、駆逐艦14隻。
- ^ 渾作戦部隊指揮官宇垣纏第一戦隊司令官
- 攻撃部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、巡洋艦〈妙高、羽黒、能代〉、駆逐艦〈島風、沖波、朝雲〉)
- 第一輸送隊(青葉、鬼怒、敷波、浦波、満潮、山雲、野分)
- 第二輸送隊(厳島、津軽、輸送艇隊)
- 補給部隊
出典:。
- ^ 重巡最上は志摩艦隊の駆逐艦曙と共に退避中、第77任務部隊の護衛空母から飛来した艦上機の攻撃で航行不能となり、曙に雷撃処分された。
- ^ 第82号艇(艇長:水野相正兵曹長、艇付:村上信一 一等兵曹、島豊二等兵曹)が未帰還となった。
- ^ 先代は防護巡洋艦のヌエベ・デ・フリオであった。
- ^ 同様に姉妹艦フェニックス (USS Phoenix, CL-46) もアルゼンチンに売却され、最初は「ディエシシエテ・デ・オクトゥブレ」 (ARA Diecisiete de Octubre) 、つづいて「ヘネラル・ベルグラノ 」(ARA General Belgrano, C-4) と命名された。
出典
- ^ #ボイス起工通知 p.1(米國巡洋艦「ボイス」起工ニ關シ細目事項通知ノ件)
- ^ a b c 木俣『日本軽巡戦史』103、104ページ。原典は吉村昭『大本営が震えた日』
- ^ #南菲支援隊戦闘詳報 pp.11-12
- ^ #南菲支援隊戦闘詳報 pp.25-29
- ^ ニミッツ、ポッター, 34ページ
- ^ a b ポッター, 263ページ
- ^ ニミッツ、ポッター, 126ページ
- ^ #S1710(上)経過概要 p.12(昭和17年10月)〔 8| |「ガ」島(飛行機)連絡将校ノ報告ニ依レバ的所在fハ fc×30 fb×20 f×10 計60程度|南東| 〕
- ^ a b #S1710(上)経過概要 p.13(昭和17年10月)〔 9|1150|龍田(18S/8F)及d×5ハ「ガ」島「タサハロング」揚陸完了(「カ」號作戰増援部隊 竜田、野分、舞風、15dg(陽炎欠))/d×6「カミンボ」ニ無事揚陸(増援部隊)|南東|(飛行機)連絡将校ノ報告ニ依レバ敵所在fハ fc×30 fb×20 f×10 計60程度|南東|一七軍司令部乗艦司令官以下無事上陸/野分ニ戰死2 負傷7 上空警戒ノfsハ敵(飛行機)×3撃墜(11sf) 〕〔 9|1000|fc×27「ガ」島[飛行場]ニ達シ30分上空制圧(5AB/11AF |〃|空地共敵(飛行機)ヲ認メズ 仝島守備隊ノ報告ニ依ルト我fc進入直前敵f×20離陸逃避 〕
- ^ #S1710(上)経過概要 p.13(昭和17年10月)〔 9| |「ガ」島奪回計画 十一日十二日艦艇陸軍砲兵部隊ニテ[飛行場]砲撃 高速T×数隻ニ重火器及物糧ノ大部搭載 十五日一擧ニ揚陸企図十一日AdBハ「トラック」出撃 「ソロモン群島」南方東方ノ索敵哨戒ヲ特ニ嚴ニス 奇襲艦艇ノ一部ハ「ニューヘブライズ」諸島ノ敵[飛行場]ノ攻撃破壊|南東| 〕
- ^ ニミッツ、ポッター, 126、127ページ
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- 「世界の艦船 増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」(海人社)、1993年
- 「世界の艦船 増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」(海人社)、2001年
- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
- 竹村悟「第六章 青葉は沈まず」『太平洋戦記ノンフィクション 軍艦青葉は沈まず 完勝!第一次ソロモン海戦』今日の話題社、1986年4月。ISBN 4-87565-117-1。
- 永井喜之、木俣滋郎「第4部 第二次大戦以降/3.アルゼンチン軽巡洋艦「ベルグラーノ」」『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8。
- C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾共訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
- ロバート・D・バラード 著、川中覺 監訳『THE LOST SHIPS OF GUADALCANAL ガダルカナル 悲劇の海に眠る艦船』同朋舎出版、1994年1月。ISBN 4-8104-1720-4。
- 福田幸弘『連合艦隊 ― サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月(原著1983年)。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 比島・マレー方面海軍進攻作戦』 第24巻、朝雲新聞社、1969年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 第26巻、朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
- ダグラス・マッカーサー、津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2003年7月(原著1964年)。ISBN 978-4-12-205977-1。
- 「丸」編集部編『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6。
- (99-109頁)当時第六戦隊先任参謀・元海軍中佐貴島掬徳『悲運の第六戦隊、米電探に散る サボ島沖夜戦』
- イヴァン・ミュージカント 著、中村定 訳『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0。
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『第137号10.4.26米国巡洋艦ボイス起工に関し細目事項通知の件』。Ref.C05110670900。
- 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第16戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030057100。
- 『第5戦隊司令部戦時日誌戦闘詳報.南方部隊菲島部隊南菲支援隊戦闘詳報』。Ref.C08030723800。
- 『昭和16年11月~昭和18年5月 軍艦那智戦時日誌及行動図(1)』。Ref.C08030747700。
- 『昭和17.10.1~昭和18.1.31 太平洋戦争経過概要その4(防衛省防衛研究所)17年10月1日~17年10月14日』。Ref.C16120634000。
- 『昭和17.10.1~昭和18.1.31 太平洋戦争経過概要その4(防衛省防衛研究所)17年10月15日~17年10月31日』。Ref.C16120634100。
外部リンク