O・J・シンプソン O. J. Simpson
O・J・シンプソン(1990年)
基本情報 ポジション
ランニングバック 生年月日
(1947-07-09 ) 1947年 7月9日 没年月日
2024年 4月10日 (2024-04-10) (76歳没) 出身地
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 サンフランシスコ 身長:
6' 1" =約185.4cm 体重:
212 lb =約96.2kg 経歴 大学
南カリフォルニア大学 AFL/NFL ドラフト
1969年 / 1巡目全体1位 初出場年
1969年 初出場チーム
バッファロー・ビルズ 所属歴
受賞歴・記録
プロボウル 選出6回:(1969年、1972年-1976年)
オールプロ 選出5回:(1972年-1976年)
NFL75周年記念オールタイムチーム
NFL1970年代オールディケイドチーム
ハイズマン賞 (1968年)
マックスウェル賞(1968年)
UPI通信 カレッジフットボール最優秀選手(1967年、1968年)
ウォルター・キャンプ 賞(1967年)
シーズン最優秀選手 (1973年)
NFL最優秀攻撃選手(1973年)
バート・ベル 賞(1973年)
UPI AFL-AFC最優秀選手(1972年、1973年、1975年)
AP通信年間最優秀アスリート(1973年) NFL 通算成績
通算ラッシング獲得ヤード
11,236ヤード 平均獲得ヤード
4.7ヤード ラッシングTD
61回 パスキャッチ数
203回 通算レシーブ獲得ヤード
2,142ヤード レシービングTD
14回
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR
オレンタール・ジェームス・シンプソン (Orenthal James Simpson , 1947年 7月9日 - 2024年 4月10日 )は、アメリカ合衆国 の元アメリカンフットボール 選手、俳優 。カリフォルニア州 サンフランシスコ 出身。
O. J. (アメリカ合衆国でオレンジジュース の略語)のイニシャルで知られ、「ジュース 」の愛称で呼ばれた。引退後、アメリカンフットボール 選手としてプロフットボール殿堂 入りした。1994年 に発生した元妻の殺害事件(O・J・シンプソン事件 )の被告人となったことでも知られる。
経歴
生い立ち
アフリカ系アメリカ人 の両親の元に生まれる。子供の頃に栄養失調 でガニ股 となった。当時ギプス を買うお金もシンプソンの家にはなかった[ 1] 。
ガリレオ高校に在籍中に、高校のアメリカンフットボールチーム「ガリレオライオンズ」に参加する。
サンフランシスコ市立大学 の短期大学部での2年間で2,445ヤードを走り54タッチダウンをあげる活躍を見せ、その能力を見込まれ南カリフォルニア大学 に編入学し、わずか2年間の在籍で当時のパシフィック・テン・カンファレンス 新記録となる3,423ヤードを走り[ 2] 、35タッチダウンをあげた[ 3] 。4年次の1968年には、1,880ヤードを走り、カンファレンス記録となる23TD、ハイズマン賞 [ 2] 、マックスウェル賞 を受賞、「(オレンジ)ジュース」のニックネームがつけられた。
プロ入り後
1969年のAFL、NFL合同ドラフトで前年度に1勝12敗1引分というリーグ最悪の成績を残したバッファロー・ビルズ に全体1位で指名されて入団した[ 3] 。当時ヘッドコーチのジョン・ラウチ はカレッジフットボールと違い1人のランナーが30回、40回とボールキャリアとなることに否定的で、シンプソンをランニングバックとしてだけでなくレシーバーやブロッカー[ 3] 、スペシャルチームでリターナーとしても起用しようと考えた。これはスタールーキーとヘッドコーチとの間に摩擦をもたらした(ラウチコーチは試合当日の朝にも筆記試験を行い、そうしたことでベテラン選手の何人かは嫌気がさしてチームを去っていた。)[ 4] 。オークランド・レイダース のようにより早くより遠くを目指すオフェンスをゲームプランにしていたラウチコーチは高齢となり怪我も多くなったジャック・ケンプ からハーベン・モーゼス 、マーリン・ブリスコー へのロングパスを多用する攻撃を好んでおりランプレイでもウェイン・パトリック 、ビル・エンヤット らと併用されたシンプソンは1試合あたり13回のボールキャリーで[ 3] 697ヤードのランに終わった[ 4] 。
2年目の1970年シーズン もQBデニス・ショー によってレイダースのようなオフェンスプランが継続して使用された。ニューヨーク・ジェッツ 戦では95ヤードのキックオフリターンTDをあげたがシーズン半ばのシンシナティ・ベンガルズ 戦のパントリターンでシーズン絶望となるひざの怪我を負い488ヤードの獲得に終わった[ 3] [ 5] 。
1971年シーズン 開幕直前にラウチコーチが解任され、後任としてハーベイ・ジョンソン コーチが就任した[ 6] 。シーズン開幕後オフェンスラインに怪我人が続出し6試合連続TDが奪えず4試合連続で完封負けするなど[ 6] NFL最悪の1勝13敗に終わった[ 3] 。この頃、シンプソンは「ハドルの中に知らない奴がいるから自己紹介をしなくてはならないくらいだよ」と語った[ 6] 。この年シンプソンは742ヤードを走り5TDをあげた[ 6] 。
1972年 にビルズに元ヘッドコーチのルー・セイバン がヘッドコーチとして復帰した。シンプソンのポテンシャルを見抜いたセイバンによってクッキー・ギルクリスト が任されたようにシンプソンがオフェンスの中心として起用されるようになった。チームはドラフト2巡目で後にカレッジフットボール 殿堂入りを果たすオフェンスラインのレジー・マッケンジー を獲得した。シンプソンが左、シンプソンが右、シンプソンが中央といったプレーが中心となり、ハイズマン賞受賞RBであるシンプソンは一躍リーグでも有数のRBとなった。この年1,251ヤードを走り、シンプソンはNFLのリーディングラッシャーに初めてなった[ 7] 。
1973年 にシンプソンはNFLの年間記録として初めて2,000ヤードを越える2,003ヤードのランを記録し(それまでの記録は1963年、ジム・ブラウン の1,863ヤード[ 8] 。)、当年のMVP を受賞した。後に年間2,003ヤードの記録は破られるものの、当時は1シーズン14試合制であり、連続14試合での獲得ヤードでシンプソンの記録を超えたNFL選手は未だ現れていない(1978年 以降は1シーズン16試合制)[ 9] 。この年開幕週のニューイングランド・ペイトリオッツ 戦で250ヤードを走り1試合のラッシング獲得ヤードNFL記録を作った[ 3] [ 8] 。その後4試合連続で100ヤード以上を走り5試合終了時点で813ヤードとなったシンプソンにはジム・ブラウンの記録更新の期待が高まった[ 3] 。スーパーボウルチャンピオンのマイアミ・ドルフィンズ 戦では55ヤードと抑えられたが、10月29日のカンザスシティ・チーフス とのマンデーナイトフットボールで157ヤードを走り[ 10] 、シーズン前半7試合で1,000ヤードを突破した[ 3] 。続く2試合で79ヤード、99ヤードに終わったが続く4試合で100ヤード以上を走りシーズン2試合を残した時点で1,584ヤードまで記録を伸ばした[ 3] 。吹雪が舞う中で行われた地元リッチ・スタジアム で行われたニューイングランド・ペイトリオッツ 戦で21回のキャリーで219ヤードを走ったシンプソンはジム・ブラウンの記録まで残り1試合で63ヤードまで迫った[ 3] 。最終節シェイ・スタジアム で行われたニューヨーク・ジェッツ 戦も雪の中での試合となったが第1Qにジム・ブラウンの記録を更新し2000ヤード達成直前の2プレーでQBファーガソンがシンプソンを休ませるためにFB のジム・ブラックストン にボールを持たせたプレーには記録達成の瞬間を心待ちにした敵地ジェッツのファンからもブーイング が起きた[ 3] 。最後はブラックストンが空けた中央にシンプソンが走るプレーで7ヤードを獲得しこの試合200ヤード、シーズン通算2003ヤードの記録を達成した[ 3] [ 11] [ 12] 。この年新人QB、若い2人のWRであったため、パス攻撃はほとんど選択されず、OJが左、OJが右、OJが中央といったプレーコールがほとんどであった[ 13] 。シンプソンの新記録の影にはタイトエンドも含めたエレクトリックカンパニーと呼ばれる10年で最高のオフェンスラインの存在もあった[ 8] 。この試合残り8分となったところでQBジョー・ファーガソン はハドル で「OJの2000ヤード達成まであと60ヤードだぞ。」とチームメートに声をかけた[ 8] 。新記録達成後の記者会見にシンプソンはオフェンスの全選手を同席させ1人1人を特にレジー・マッケンジーへ感謝の言葉を述べた。またシンプソンはオフェンスの選手やコーチたちに純金 製のブレスレット を贈った。その総額は2万ドルを超えたという[ 8] 。
シンプソンは1973年の活躍に対して当年の最優秀のプロスポーツ選手に与えられるヒコックベルトを受賞した。シンプソンはNFL記録である6回の1試合200ヤード獲得(そのうち3回は1973年、1973年と1976年には2試合連続で)を記録した。
1974年 はNFL2位の1,125ヤードを走り3TD(1レシーブTDを除く)をあげた。
1975年 、シンプソンはNFLリーディングラッシャーとなる1,817ヤードを走り、ランで16個、レシーブで7個、合計23TDをあげてこれまでゲイル・セイヤーズ が持っていた22TDのNFL記録を更新した[ 14] 。またこの年シンプソンはパスターゲットとしても多用されるようになった[ 15] 。
1976年 にシンプソンは生まれ育ったアメリカ西海岸 のチームへのトレードを求めた[ 16] 。シンプソンの年俸は当時30万ドルでハリウッド での俳優業やコマーシャル出演、ABC の解説者などでその10倍以上を稼いでいた[ 16] 。ロサンゼルス・ラムズ との交渉が行われたがビルズのオーナー、ラルフ・ウィルソン の要求であるマイク・ファニング 、ジャック・ヤングブラッド 、ローレンス・マッカチオン 、ドラフト1巡指名権2つは過大であるとラムズオーナーのキャロル・ローゼンブルーム は判断、トレードは成立しなかった[ 16] 。トレードのデッドラインぎりぎりまで他チームとのトレードもうまく進まず、ウィルソンオーナーとシンプソンは3年250万ドルの契約に合意した[ 16] 。この年感謝祭 の日に行われたデトロイト・ライオンズ 戦でシンプソンは自身の作った1試合ラッシング記録を塗り替える273ヤードを走った[ 3] [ 16] 。この年もNFLリーディングラッシャーとなる1503ヤードを走ったがタッチダウンは9個にとどまった。
1977年シーズン 、シアトル・シーホークス 戦でひざを負傷しシーズン絶望となった。この年シンプソンは7試合の出場、557ヤード獲得に終わった[ 3] [ 17] 。
1978年 、前ロサンゼルス・ラムズヘッドコーチのチャック・ノックス がビルズの新ヘッドコーチになると、シンプソンはドラフト指名権5つ(1979年のドラフト1巡指名権を含む。)と引き換えにサンフランシスコ・フォーティナイナーズ にトレードされたが[ 18] [ 19] ひざや肩の故障により593ヤードの獲得にとどまった[ 3] 。
1979年 、フォーティナイナーズにはビル・ウォルシュ が新ヘッドコーチに就任したが、右ひざの故障や2歳を目前にした娘が8月に溺死したこともあり、トレーニングキャンプをほとんど休んだ。この年13試合に出場したシンプソンは120回のキャリーで460ヤードの獲得、3TDに終わり[ 19] 1980年1月23日に現役を引退した。
シンプソンは生涯に11,236ヤードのランを獲得し、オールプロ に選出されること5回、プロボウル にも6回選ばれた。
ビルズ時代の1975年11月23日のニューイングランド・ペイトリオッツ 戦で4タッチダウンをあげた。シンプソンの他にビルズで1試合4TDをあげたのは1963年8月12日のニューヨーク・ジェッツ 戦でのクッキー・ギルクリスト 、1979年9月9日のシンシナティ・ベンガルズ 戦でのローランド・フックス 、1979年9月23日のニューヨーク・ジェッツ戦でのジェリー・バトラー 、1991年9月8日のピッツバーグ・スティーラーズ 戦でのドン・ビービー 、1992年9月6日のロサンゼルス・ラムズ 戦でのサーマン・トーマス 、2004年11月28日のシアトル・シーホークス 戦でのウィリス・マゲイヒー の6人のみ[ 20] 。
シンプソンは現役最後となったアトランタ・ファルコンズ 戦の第1Qで2ヤードゲインしたもののファンブルしてしまい、ボールはランディ・クロス がリカバーした。第4Q終盤、第3ダウン残り10ヤードの場面でシンプソンはボールを受取り左サイドを走ってファーストダウンを獲得しこれが現役最後のプレーとなった。シンプソンは試合後、「ファンブルが自分の現役最後のプレーとなりはしないかと心配したよ」と語った[ 19] 。
引退後
引退後は俳優やコメンテーターとして活躍し人気を博した。また、1985年 にはハイズマン賞 受賞者としては初めてプロフットボール殿堂 入りした。
「O・J・シンプソン事件」
逮捕時のマグショット (1994)
シンプソンは1994年、白人 の元妻のニコール・ブラウンとその友人のロナルド・ゴールドマンを殺した容疑で逮捕され、のちに起訴された。この事件は被疑者が大スターであることのみならず、捜査員の人種差別 的思想の過去など様々な人種問題も絡んでアメリカ国内で非常な関心を集め、テレビ中継されたフリーウェイ 上でのカーチェイスの上でのシンプソンの逮捕から判決までの期間、裁判等の動向は逐一トップニュースとなり社会的現象となった。
刑事裁判でシンプソンは無罪となったが、民事裁判ではシンプソンによるゴールドマンへの殺人が認められた。また一連の裁判による多額の借金のためシンプソンはハイズマン賞 のトロフィーを売却する羽目になった[ 21] 。シンプソンはこの事件について「If I did it(もし私がやっていたとしたら)」という著書を出版しようとしたが、遺族の猛反対で断念した。
その後の事件
2007年 9月16日、シンプソンは5人の男と拳銃 で武装してラスベガスのホテルに押し入り、多数のスポーツ記念品を盗んだ容疑で逮捕された[ 22] 。被害者の一人はかつてシンプソンからハイズマントロフィー を購入した人物でシンプソンは「盗まれた記念品と妻子の写真を取り戻そうとしただけで、銃など持っていなかった」と主張したがこれは退けられ、2008年 12月5日、シンプソンに合計33年の懲役刑が言い渡された。
仮出所は最短でも収監9年目以降となった[ 23] 。2013年5月、裁判のやり直しを求めたが、同年11月に却下された[ 24] [ 25] 。2017年7月20日、同年10月1日付での仮釈放が許可され、同年10月1日の朝に仮釈放された[ 26] [ 27] 。
NFLは公式オンラインストアで選手名と背番号を入力してカスタマイズされたユニフォームを注文することができるが、2018年時点でシンプソンとアーロン・ヘルナンデス とレイ・カルース (共に殺人事件を犯し、有罪となっている)のユニフォームは販売禁止リストに載っている[ 28] 。
死没
2024年4月10日にがん のため死去。76歳没。翌11日、家族がX で公表した[ 29] [ 30] 。
プレースタイル
シンプソンはディフェンスのホールを探す能力に優れたものを持っており、カットバックする能力がずば抜けていた[ 1] 。
主な出演作
また、実現こそしなかったものの、1984年の映画『ターミネーター 』でアーノルド・シュワルツェネッガー が演じたT-800 役の候補にも挙がっていた。
脚注
^ a b O.J.シンプソン
^ a b Thad Novak (2011年3月30日). “LaMichael James and the Top 25 RBs in Pac-10 History ”. bleacherreport.com. 2013年1月13日 閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p Coffey, Wayne (1980). SUPERSTATAS FOOTBALL'S ALL-TIME GREATS . Mahwah, New Jersey: Watermill Press. pp. pp.111-121. ISBN 0-89375-266-5
^ a b “1969 Buffalo Bills - Hellos and Goodbyes ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ “1970 Buffalo Bills - A Fallen Hero - Hellos and Goodbyes ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ a b c d “1971 Buffalo Bills - Worst Team Ever ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ “1972 Buffalo Bills - Turning on the Juice ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ a b c d e “1973 Buffalo Bills - The Birth of the Electric Company ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ “引退したLTはランクイン?RB歴代トップ10 -前編- ”. NFL JAPAN (2012年6月19日). 2012年7月3日 閲覧。
^ “MNF History: 1973 ”. ABC (2002年8月29日). 2013年6月2日 閲覧。
^ Brady's great, but imagine vintage Marino and today's rules ESPN 2008年1月9日
^ “最終ゲームで達成された2つの偉大な記録 ”. NFL JAPAN (2010年12月16日). 2010年12月19日 閲覧。
^ “1974 Buffalo Bills - Balance and a Return to the Playoffs ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ “1975 Buffalo Bills - OJ Paves the Way ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ 当時の1シーズンは14試合。
^ a b c d e “1976 Buffalo Bills - What could have been ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ “1977 Buffalo Bills - End of an Era ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ “1978 Buffalo Bills - Ground Chuck ”. billszone.com (2004年1月1日). 2010年5月5日 閲覧。
^ a b c “O.J. Simpson's Years as a 49er ”. bleacherreport.com (2008年10月20日). 2010年9月8日 閲覧。
^ McGahee joins exclusive Bills club with 4 TDs Billszone
^ ハイズマントロフィーが必ずしもNFLでの成功を確約するわけではありません。 NFL JAPAN 2003年12月
^ “O.J. Simpson Arrested in Armed Robbery of Las Vegas Hotel Room ”. FOXニュース (2007年9月16日). 2010年9月8日 閲覧。
^ “OJ Simpson given lengthy sentence ”. BBC (2008年12月6日). 2010年9月8日 閲覧。
^ “O・J・シンプソン受刑囚 裁判やり直し求め出廷 ”. フジテレビ (2013年5月14日). 2013年6月2日 閲覧。
^ “O.J. Simpson denied new trial: why such appeals almost never work ”. Christian Science Monitor (November 27, 2013). July 21, 2017 閲覧。
^ Shapiro, Emily (20 July 2017). “OJ Simpson granted parole for Las Vegas robbery” . ABC News. http://abcnews.go.com/US/oj-simpson-granted-parole-las-vegas-robbery/story?id=48689499 20 July 2017 閲覧。
^ CNN, Meg Wagner, Amanda Wills and AnneClaire Stapleton. “O.J. Simpson goes free: Live updates” . https://edition.cnn.com/2017/07/20/us/oj-simpson-parole-hearing-live/index.html 2017年7月20日 閲覧。
^ “NFL、19年の服役終え出所した元選手のユニフォーム販売を禁止に ”. スポーティングニューズ (2018年10月24日). 2022年7月27日 閲覧。
^ “O・J・シンプソン氏死去 元米フットボール選手” . 47NEWS . 共同通信社 . (2024年4月12日). https://www.47news.jp/10778787.html 2024年4月12日 閲覧。
^ O.J. Simpson [@TheRealOJ32] (2024年4月11日). "On April 10th, our father, Orenthal James Simpson, succumbed to his battle with cancer" . X(旧Twitter) より2024年4月12日閲覧 。
関連項目
外部リンク
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