角田 信朗(かくだ のぶあき[1]、(1961年[1]4月11日[2] - )は、日本の空手家[2](六段)、ボディビルダー。正道会館最高師範、K-1競技統括プロデューサー。タレント・俳優・歌手としても活動している。血液型はAB型。大阪府[1]堺市出身、大阪市在住。
奈良県立生駒高等学校、関西外国語大学外国語学部英米語学科卒業。既婚。前妻との娘に熊本県高森町を拠点に活動するご当地アイドル・酒粕ガールズ(SKG)のメンバーである角田友里亜がいる[3][4]。
中学時代に少林寺拳法を学び、二段を取得。その後、高校2年の時に極真空手の芦原道場奈良支部入門[1]。関西外国語大学進学後、兄弟子・石井和義の独立(正道会館)を支える。大学では実戦空手同好会の主将を務める。大学卒業後、不動産会社の社員やラーメン屋の店員として働きながら、正道会館神戸支部長として空手を続ける。その後、神戸支部長の座を後輩に譲り、本部道場の職員となり師範代となった。
1991年12月7日には、総合格闘技団体リングスに参戦。ヘルマン・レンティングと対戦し、引き分け。その後も1993年7月13日の大会まで継続的に参戦した。
空手家としては、1993年に空手ワールドカップにおいて「負けたら引退」ということをかけてマイケル・トンプソンに挑むが、後ろ回し蹴りにて一本負けを喫した。この時に、現役を引退すると会場で告げた。
1995年7月16日に「K-1 LEGEND 翔」のジョー・サン戦にて現役復帰し、KO勝ち。1998年3月22日、愛知県体育館における新日本プロレスの興行で、引退試合を2週間後に控えたアントニオ猪木と公開スパーリングを行なった。
2001年、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約。
2001年4月より、山川恵里佳と共にNHKの『天才てれびくんワイド』の司会者に就任(2002年3月まで1年間担当)。なお角田は同番組において、初めてお笑いタレント以外から起用された男性司会者となった。
K-1選手としては、2003年5月3日に行なわれた「K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGAS」の武蔵戦をもって、2度目の現役引退。
2004年7月7日、「K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント」で決勝戦で魔裟斗 vs. ブアカーオ・ポー.プラムックにて、3Rに魔裟斗がフラフラの状態で戦っているほど不利な試合展開だったにもかかわらず、ジャッジである中川敬介と大成敦の2人が3R終了時点でドローの採点をしたことでK-1に批判が殺到したため、角田は「試合後の競技役員による検証を待つまでも無く、この判定がミスジャッジングである事は明らかで、本戦終了時点でブアカーオ選手が試合を支配し、勝者となるべきであって、延長戦は行う必要のないものであったと認識しております。」と語り、大会終了後の7月9日に2名のジャッジと共に競技統括プロデューサーとして責任を負う形で処分を受けた(魔裟斗は延長ラウンドで0-3の判定負け)[5]。
2005年3月19日に行なわれた「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」で2回目の現役復帰。曙と対戦し、2度のダウンを奪われ判定負け。
2005年5月27日、K-1 WORLD GP 2005 in PARISにてマーベリックと対戦し、右フックで1RKO勝ち。
2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINALのアルバート・クラウス vs. 武田幸三のレフェリーを務めた際にストップの遅さが物議を醸し、11月13日、「レフェリーの判断と一般の視聴者の方、観客の方が考えるダメージに大きく隔たりがあり、混乱をきたした」として角田自らが業務自粛を申し出て、11月11日付けで3か月の業務停止処分を受けた[6]。
2017年1月、松本人志との長年の「誤解」を解こうとアップしたブログが原因で逆に批判を受け、公での活動を控えていたが、9月に出演する舞台『北斗の拳-世紀末ザコ伝説-』で出直しを誓った[7]。
2015年9月26日グアムで行われた「日本グアム親善 ボディビル選手権」に出場、男子ボディビルミドル級では優勝、マスタークラスでは3位の成績を収めた[8]。
2016年7月10日「2016年ボディビルフィットネス選手権大会」に出場し、トータルで3冠を達成した[9]。
2016年9月18日「第28回 日本マスターズ選手権大会」の男子マスターズ50歳以上級75キロ超級に出場し、準優勝を果たした[10]。
2022年8月28日に函館市民会館で行われた『第34回日本マスターズボディビル選手権』60歳以上級と60歳~80歳以上のオーバーオールで優勝。
2022年11月3日にスペイン・サンタスサンナで開催された『IFBB世界選手権』でボディビルマスターズ60歳以上級5位入賞を果たした。
2007年8月22日に、パチンコ「CR花の慶次-雲の彼方に-」の主題歌「傾奇者恋歌」をソロで歌い、発売した。このパチンコがヒットし、「CR花の慶次〜斬」「CR花の慶次〜愛」も開発され、それぞれで角田がオリジナル新曲を歌っている。
2010年9月、大阪松竹座の舞台「花の武将 前田慶次」に山上道及役で出演した。
K-1草創期からレフェリーを務めており、K-1競技統括プロデューサーも兼任していたが、疑問視されるレフェリングもある。ネバダ州アスレチックコミッションは角田に対してレフェリー・ライセンスの発行停止処分を下している[19]。
武田vsクラウス戦へのファンの批判や意見により、2009年11月13日、角田自らがK-1を運営するFEGに対して業務自粛を申し出て、11月11日付けでK-1の競技統括として『3か月の業務停止』となった。同日に角田はブログにて「自分のレフェリングは確固たる信念と経験に基づいたものであるという自負を持っています。僕はあれをミスレフェリングだなどとはこれっぽっちも思っていません。」「年内のGP決勝や大晦日という重要なイベントを残した上で、あえてこのような申し入れをK-1に対して行ったのであって、一方的に【処分】が下された訳ではありませんのでご心配なく。」と表明した[25]。この件に関して、武田幸三は自身のブログで、「角田さんがご自身で受け入れられた処分について、非常に残念に思います。そして大変申し訳無く思います。先日、セコンドの深津が皆様にお伝えした様に[24]、私は角田さんのレフリングに命を預け、角田さんは全てを守って下さいました。格闘家に命を懸けて生きて来た者として。キックボクサーとして。プロの格闘家として。最後の試合を、角田さんの様な、偉大なレフリーに裁いて頂けた事を本当に誇りに思います。」「角田さん、多大なる御迷惑をお掛けしてしまい大変申し訳ありません。角田さんのレフリングがあったからこそ、格闘家としての自分に、晴れやかな気持ちで幕を降ろせました。本当に有難う御座いました。」「そして皆様。私、武田幸三の最後のリングで、格闘家として、命のギリギリで戦って来た者にしかわからない空間の中で、私の体と誇りを守りながらも、出来る限り戦わせて下さり最高の物にして下さったのは、皆様ご存知の通り角田さんです。プロ格闘家として、レフリーとして、リングで戦う私の安全を守って下さった角田さんをご理解頂ければと思って居ります。」と語っている[26]。この問題は選手の気持ちを取るか安全性を取るか、今なお意見が分かれている。