ロブ・カーマン(Rob Kaman、1960年6月5日 - 2024年3月31日)は、オランダの男性キックボクサー。アムステルダム出身。
人物
子供の頃はサッカーに夢中になり、アヤックス・アムステルダムユースチームに所属していた。類稀な運動神経でサッカーにおいても目立つ存在だった。将来を期待された選手だったが、チームスポーツに馴染めなかったために、個人競技に転向したいと思い、格闘技に興味を持ち、16歳の時にインドネシアの伝統武術であるプンチャック・シラットを始めた。
キックボクサーのルシアン・カルビンの試合を見た後、19歳の時にキックボクシングの名門、オランダ目白ジム[1]に入門し、カルビン、そしてヤン・プラスの下でムエタイとキックボクシングの練習を始めた。4か月後に初試合を行い、フランス国内王者のカリロンと対戦して判定負け。その後、勝ち星を重ねてA級に昇格すると、ベニー・ユキーデの従兄弟のブリンキー・ロドリゲスと対戦しローキックで2RKO勝ちし、国際的に名前が知られるようになった。
人間的にも素晴らしく、その人格には高い評価が与えられている。自分の車を貸した友人がその車で銀行強盗を起こした際、友人は背格好も容姿もカーマンにそっくりだった為にカーマンが逮捕された。カーマンは冤罪であったが罪をかぶり、その友人の代わりに自分が刑務所に入ったという逸話がある。彼によればその方が友人を反省させられると考えたからだと言う。服役したカーマンの姿に、良心の呵責に苛まれた友人は自首し事件は一件落着した。
1980年代後半は日本のリングに登場し、低迷する日本のキック界をカーマンが盛り上げ格闘技ブームの一翼を担った。
来歴
1983年9月23日、WKA世界王座に挑戦。ジョン・モンカイヨと対戦しローキックで3R KO勝ちしヨーロッパ系のキックボクサーとして初のWKAの世界王者となった。
1984年1月12日、パーヤップ・プレンチャイ(タイ)とムエタイルールで対戦し、勝利を収めた。4月にアメリカ・フロリダ州でモンカイヨと再戦し、これを2R KO(パンチ)で退ける。同年12月28日には香港でサーマート・プラサンミット(タイ)に、ジャン・マルク・トーナスにWKAフルコンタクトヨーロッパ王座決定戦で勝利した。
1987年11月15日、全日本キックボクシング連盟興行で初来日。1Rでラックチャート・ソーパサドポンをKOし、日本でも知られる存在になった。これを機に日本での試合のオファーが増え、カークウッド・ウォーカー、ドン・中矢・ニールセンといった強豪キックボクサーと対戦しその試合全てを勝利した。
1989年4月9日、オランダでヤン・ウェッセルと対戦するも敗北。しかし、その年の終わりにウェッセルと再戦し2R KOで下しリベンジに成功した。
1989年10月21日、全日本キック後楽園ホール大会で、プロレスラーのサムソン・ネグロ(イギリス)と異種格闘技戦を行い、3R 38秒 左膝蹴りでKO勝ちした。
1990年に映画「ブラッドフィスト」に出演し、ドン・ウィルソンとの共演も果たした。同年、長男が誕生。
1990年6月30日、日本武道館で行われたWKA世界ジュニアライトヘビー級王座防衛戦で、ピーター・スミット(オランダ/WKAヨーロッパ王者)と対戦。10R 2分10秒 右ストレートでKO負け、王座から陥落した。
1990年9月28日、全日本キック武道館大会で西良典と対戦、1RKO勝ち。またオランダでアーネスト・ホーストにも5R KO勝ちした。
1991年6月29日、ピーター・スミットを破りルック・フレヘイヤーが戴冠したWKA世界王座にフランスのパリで挑み、5R 1分36秒レフリーストップによるTKO勝ちで王座に返り咲いた。この年はフランスを主戦場にしてリック・ルーファス、ジャスティン・ワードといった選手と対戦した。
1992年6月20日、当時フルコンタクトルールで史上最強と言われたジャン・イヴ・テリオーの持つISKAフルコンタクト世界王座に挑戦し、TKO勝ちを収め新王者となった。
1993年11月26日、オランダ王者のリック・ヴァン・ダムに2RKO勝ちすると、2本の映画に出演。その際、ジャン・クロード・ヴァンダムと共演。
1993年12月19日、K-1が主催したK-2 GRAND PRIX '93に参戦。1回戦でチャンプア・ゲッソンリットと対戦、ダウンを奪われての判定負け。
1995年1月7日、フランスのパリで行われたK-2 France Grand Prix'95(K-1が主催)に参戦。決勝戦でジェロム・ターカン(フランス)を4RにハイキックでKO勝ちし優勝した。
1999年10月24日、オランダで開催されたIt's Showtimeで引退試合を行い、アマチュアキックボクシングの世界選手権で優勝したアレクセイ・イグナショフと対戦。
現役引退後は、アメリカでMMA選手のトレーナーをしており、ブランドン・ヴェラ、ジェイソン・ミラーらを指導した。
2024年3月31日の夜に死去[2]。63歳没[3]。
戦績
キックボクシング
勝敗
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対戦相手
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試合結果
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大会名
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開催年月日
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○ |
アレクセイ・イグナショフ |
3分5R終了 判定3-0 |
It's Showtime |
1999年10月24日
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× |
ジャン・クロード・リビエール |
5R 0:43 TKO(戦意喪失) |
K-1 HERCULES '96 |
1996年12月8日
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○ |
ジェロム・ターカン |
3R+延長1R KO(ハイキック) |
K-2 France Grand Prix 1995 【決勝戦】 |
1995年1月7日
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○ |
トスカ・ペトリディス |
3分3R終了 判定 |
K-2 France Grand Prix 1995 【準決勝】 |
1995年1月7日
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○ |
ラベル・ロビンソン |
1R 2:35 KO(ローキック) |
K-2 France Grand Prix 1995 【1回戦】 |
1995年1月7日
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○ |
ジェロム・ターカン |
KO(ローキック) |
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1994年6月25日
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× |
リック・ルーファス |
2R KO(左フック) |
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1994年2月5日
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× |
チャンプア・ゲッソンリット |
3分3R終了 判定3-0 |
K-2 GRAND PRIX '93 【1回戦】 |
1993年12月19日
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○ |
アダム・ワット |
2R 0:49 KO(左フック) |
格闘技シンポジウム~総合格闘技完成前夜 |
1992年12月11日
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△ |
佐竹雅昭 |
5R終了 ドロー |
リングス MEGA BATTLE SPECIAL 礎~ISHIZUE |
1992年8月21日
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○ |
アダム・ワット |
2R 2:18 KO(左ボディアッパー) |
硬派er~'92格闘技オリンピックⅠ |
1992年3月26日
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○ |
アーネスト・ホースト |
5R KO(左フック) |
The Battle of the Year |
1990年11月18日
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○ |
西良典 |
1R 1:51 KO(右ロングフック) |
INSPIRING WARS HEAT 928 IN BUDOKAN |
1990年9月28日
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× |
ピーター・スミット |
10R 2:09 KO(右ストレート) |
INSPIRING WARS-HEAT630 WKA世界ジュニアライトヘビー級タイトルマッチ |
1990年6月30日
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○ |
ドミニク・シーグラー |
1R 2:21 KO(右ローキック) |
INSPIRING WARS SECOND |
1990年3月31日
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○ |
ドン・中矢・ニールセン |
3R 0:44 KO(右ショートフック) |
今世紀最大の激突! |
1989年9月5日
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○ |
ショーン・オレガン |
2R 1:00 KO(左フック) |
格闘技大戦争パート5 |
1988年11月25日
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○ |
カリブ・ゲイブ・カールマイケル |
3R 1:43 KO(右ローキック) |
格闘技大戦争パート4 |
1988年10月14日
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○ |
サンディアゴ・ガルザ |
3R 0:35 KO(右ローキック) |
格闘技大戦争 Part III |
1988年7月16日
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○ |
ハンスー・プレムチャイ |
1R 1:46 KO(パンチ連打) |
格闘技大戦争PART2 |
1988年5月29日
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○ |
カークウッド・ウォーカー |
4R 1;55 KO(左フック) |
格闘技大戦争 |
1988年3月12日
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○ |
ラクチャート・ソーパサドポン |
1R 0:38 KO(右ボディストレート) |
BEST OF KICK BOXING Super Fight 3 |
1987年11月15日
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異種格闘技戦
勝敗
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対戦相手
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試合結果
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大会名
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開催年月日
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○ |
サムソン・ネグロ |
3R 0:38 KO(左膝蹴り) |
世紀の激突第5弾!! |
1989年10月21日
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総合格闘技
勝敗
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対戦相手
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試合結果
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大会名
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開催年月日
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○ |
角田信朗 |
3R 2:03 TKO(レフェリーストップ) |
リングス MEGA BATTLE 1st 回天 |
1992年1月25日
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獲得タイトル
出演映画作品
脚注
関連項目