松平忠和 (桑名藩主)

 
松平 忠和
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦9年8月27日1759年10月17日
死没 享和2年5月10日1802年6月9日
改名 唯之進(幼名)、頼徳(初名)、忠和
別名 無擬居士、鳳翔閣主人、梅花堂主人、澹寧斎(号)
戒名 遊心院殿無擬了空大居士
墓所 東京都台東区谷中天眼寺
官位 従五位下下総守従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
伊勢桑名藩
氏族 紀伊徳川家奥平松平家
父母 徳川宗将、植田氏娘・サヨ
松平忠功
兄弟 直松、徳川重倫、千間姫、琴姫、門之進、致姫、内藤学文頼興頼謙、逸姫、
忠功、従姫、三浦為脩忠和安藤道紀阿部正由
養兄弟:久仁姫雲性院美須子
伴氏、安田氏
忠翼国姫
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松平 忠和(まつだいら ただとも)は、江戸時代中期から後期にかけての大名伊勢国桑名藩5代藩主。官位従四位下下総守奥平松平家7代当主。文化人として優れており、著書に『空華集』『遊心公遺文』『澹寧斎詩稿』『恵礼幾天留記』などがある。

生涯

宝暦9年(1759年)8月27日、和歌山藩7代藩主・徳川宗将の九男として江戸赤坂の紀州藩邸にて誕生した。幼少時から部屋住みの身分であったが、この時期に松平定信と交遊しており、定信は忠和の力量を見抜き、後に自著で「英雄なり。学問も広く給ひ、天文暦学は殊に勝れてぞ聞ゆれ」と記している。

蘭学者前野良沢桂川甫周[1]の弟子として西洋の薬「テリアカ」のオランダ語の文献の翻訳や「火浣布(石綿)」のオランダ語の文献の翻訳に取り組んだ。

森島中良『紅毛雑話』には、鳳翔公子こと後の松平忠和が竹筒と徳利でエレキテルを製作し、森島中良の実兄・桂川甫周に自慢したという記録がある。

異母兄である桑名藩主・松平忠功に実子がなかったため、寛政5年(1793年)9月2日に養子となり、11月28日に忠功が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。藩政では定信の寛政の改革に倣って、寛政7年(1795年)11月に家臣の半知借上を行い藩財政再建を目指し、中沢道二らを招聘して学問を奨励している。御庭番の報告書「道中筋風文書」では、寛政8年(1796年)中島道二門弟の久世祐甫を美濃・大垣から呼び寄せ、桑名宿の本陣を借り切って、町方の人々に講釈を聞かせたことが記録に残っており、その招聘や講釈の付帯費用については領主が負担するとしたので、町方も難渋せずに受け入れ、毎日300人〜500人ほどの町人が久世の講釈を聞きに訪れ、「右に付き町方の男女自ら行儀も相直り候由」という[2]

寛政12年(1800年)には藩法を制定して綱紀の粛正を図った。

享和2年(1802年)5月10日、死去。享年44(満42歳没)。実子は早世していたため、跡を養子の忠翼が継いだ。

系譜

父母

側室

  • 伴氏
  • 安田氏

子女

  • 男子 ー 夭折

養子、養女

脚注

  1. ^ 「蘭学者相撲見立番付」大槻玄沢の塾芝蘭堂のオランダ正月で配布された。行事の蘭に桑名候の字が見える。”. 早稲田大学古典籍総合データベース. 2022年6月24日閲覧。
  2. ^ Fukai, Masaumi (1992). Edojō oniwaban: Tokugawa Shōgun no mimi to me (Shohan ed.). Tōkyō: Chūō Kōronsha. ISBN 978-4-12-101073-5 

参考文献

  • 紅毛雑話[1]−国立国会図書館デジタルコレクション−
  • 和蘭的里亜加訳稿[2] 7ページから鳳翔公子翻訳の部分
  1. ^ 紅毛雑話 5巻. [2 - 国立国会図書館デジタルコレクション]”. dl.ndl.go.jp. 2022年6月24日閲覧。
  2. ^ 新日本古典籍総合データベース”. kotenseki.nijl.ac.jp. 2022年6月24日閲覧。

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