松平 定行(まつだいら さだゆき)は、江戸時代前期の大名。遠江国掛川藩主、伊勢国桑名藩主、伊予国松山藩の初代藩主。定勝系久松松平家宗家2代。官位は従四位下・隠岐守、侍従。於大の方は祖母、徳川家康は伯父にあたる。
生涯
天正15年(1587年)、松平定勝の次男として生まれる。母は奥平信昌の養女(奥平貞友の次女)・たつ。慶長6年(1601年)、伯父の家康に初めて拝謁した。慶長7年(1602年)、従五位下・河内守に任ぜられる。次男であるが本家とは別に近江国蒲生郡のうち2千石を賜った。翌年、兄の定吉の自害により嫡子となる。慶長10年(1605年)9月、家康の命により島津忠恒(家久)の養女を室とする。慶長12年(1607年)、父の定勝より掛川城3万石を譲られ、嫡子のまま大名となった。大坂の陣では定勝と共に伏見城を警衛した。
元和3年(1617年)、定勝の世子になり、掛川を幕府に還付し桑名に移った。寛永元年(1624年)、定勝の卒去により桑名藩11万石を継承した。3年後、隠岐守に転任されまた従四位下に昇進された。寛永11年(1634年)、従甥の徳川家光の上洛に際し、途上の桑名より供奉し、家光の参内前に侍従に叙任された。家光の参内では騎馬の供奉を務めた。
寛永12年(1635年)、家光の命により伊予松山藩に4万石の加増転封となった。中四国へは初の家門入部であり、これは西国の外様への牽制と警戒のための処置であったとされる。寛永16年(1639年)に松山城の天守を5重から3重に改築した。正保元年(1644年)に長崎探題[1]に就任し、異国船との交渉に当り、鎖国制度の完成に貢献した。家光薨去後の慶安4年(1651年)、幼将軍徳川家綱を補佐するため溜之間詰に任ぜられた。同席は保科正之(家綱叔父)、松平頼重(家光従弟)、井伊直澄(譜代筆頭石高)。一方で同年、幕政批判を行い勝手に剃髪出家した弟の松平定政(三河国刈谷藩2万石)が改易となり、定政一家は定行に預けられ蟄居処分となった。定行に連座は無かった。以降、定政は定行の国許の伊予国松山で暮らした。
万治元年(1658年)、72歳で隠居し、家督を嫡男の定頼に譲って松山東野御殿に退き、松山(しょうざん)と称した(のちに勝山と改める)。これにより勝山公と奉称された。東野御殿では俳諧や茶道に親しむなど悠々自適の生活を送り、寛文8年(1668年)、東野御殿にて卒去した。享年82。
正室は長男定頼の生母。元和4年(1618年)卒去。長寿院殿月窓貞泉大姉と贈られた。当初は桑名長寿院に葬られたが、定行の移封に伴い菩提を弔うため松山城下に長寿院(のちの法龍寺)が造営され、位牌が祀られた。継室は前室長寿院殿の養妹。明暦4年(1658年)、江戸で卒去。江戸麻布曹渓寺で火葬され、蓮香院殿湖月貞鑑大姉と号を贈られた。遺骨は松山長寿院(法龍寺)に送られ、改めて浄蓮院殿湖月貞鑑大姉と号が贈られ、埋葬された。
系譜
- 正室:長寿院 - 島津忠恒の養女、島津朝久娘[2]
- 長男:松平定頼(1607-1662)
- 四女:菊姫(?-1661) - 松平昌勝正室
- 継室:浄蓮院 - 島津忠恒の養女、伊集院忠真娘[3]
- 側室:村尾氏
- 次女:龍光院(1622-1663) - 酒井忠朝正室
- 三女:倶君(1637-1692) - 堀田正信正室
- 生母不明の子女
- 次男:月舟賢順(1609-1668)[4] - 仏国山法龍寺住職
- 長女(早世)[4]
- 養子
脚注
- ^ のちの幕政に正式にある役名ではない。
- ^ 母は島津義弘長女・御屋地。
- ^ 母は島津義弘次女・御下。
- ^ a b 寛政譜などの系図には記載されていない。
- ^ 生母は松平定勝の娘正寿院。
関連項目
久松松平氏 掛川藩2代藩主 (1607年 - 1617年) |
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久松松平家(定勝系) | |
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安藤家 | |
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久松松平家(定綱系) | |
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朝倉家 | |
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青山家 | |
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桜井松平家 | |
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本多家 | |
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藤井松平家 | |
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北条家 | |
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井伊家 | |
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桜井松平家 | |
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小笠原家 | |
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太田家 | |
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久松松平氏 桑名藩藩主 (1624年 - 1635年) |
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本多家 | |
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久松松平家(定勝系) | |
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久松松平家(定綱系) | |
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奥平松平家 | |
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久松松平家(定綱系) | |
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久松松平氏 伊予松山藩初代藩主 (1635年 - 1658年) |
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加藤家 | |
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蒲生家 | |
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久松松平家 | |
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