徳川 宗将(とくがわ むねのぶ)は、和歌山藩の第7代藩主。
生涯
享保5年(1720年)2月30日、先代藩主・徳川宗直の長男として江戸青山御殿にて生まれる。幼名は直松。宝暦7年(1757年)、父の死去により家督を継いだが、藩政に対しては消極的であった。仏教に帰依し、日蓮宗を激しく排撃したと伝わる。
明和2年(1765年)2月25日、江戸赤坂の和歌山藩邸にて死去した。享年46(満45歳没)。長保寺に埋葬された。家督は次男の重倫が継いだ。
和歌山藩主としての治世は7年6か月であり、この間の江戸参府1回、和歌山帰国1回、和歌山在国の通算は6年であった[2]。
官歴
※日付=旧暦 墓所:和歌山県海南市の慶徳山長保寺
系譜
- 父:徳川宗直
- 母:服部氏(永隆院)
- 兄弟
- 正室:徳子(今出川公詮の娘)
- 長男:直松
- 長女:千間姫 - 前田重教正室
- 次女:琴姫 - 池田重寛と婚約
- 三男:門之進
- 五男:松平頼興
- 四女:逸姫
- 七男:松平忠功
- 継室:高子(一条兼香の娘)
- 側室:吉田氏
- 側室:前田氏
- 側室:村上氏
- 側室:植田氏
参考文献
脚注
- ^ 367日誕生日大事典 126頁
- ^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)
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紀伊徳川家 (宗家) |
頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 剛1958-1965 | 宜子1965-現在
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御連枝 (松平家) |
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徳川家 和歌山藩第7代藩主 (1757年 - 1765年) |
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浅野家 | |
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紀伊徳川家 | |
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