徳川 斉順(とくがわ なりゆき)は、江戸時代後期の大名。清水徳川家第3代当主を経て紀州徳川家を継ぎ、和歌山藩第11代藩主となる。江戸幕府第14代将軍徳川家茂の実父である。
江戸幕府11代将軍・徳川家斉の七男。母は家斉の側室・妙操院。12代将軍・徳川家慶の異母弟であり、13代将軍・徳川家定は甥にあたる。正室は和歌山藩10代藩主・徳川治宝の五女・豊姫、側室は実成院を含め3人。和歌山藩13代藩主・14代将軍徳川家茂(慶福)の父である。しかし、家茂が生まれる前に没したため、家茂は実父の斉順に会ったことがない。また、水戸藩主徳川斉脩の正室峰姫は同母姉にあたる。
当初は異母兄敦之助の夭逝後に空跡となっていた清水徳川家を継いだが、和歌山藩第10代藩主・徳川治宝の娘婿となっていた異母弟虎千代が早世したためこれに代わって、治宝の五女豊姫と結婚して治宝の婿養子となり、和歌山藩主を継いだ。重倫、治宝の2人の隠居を抱えていながら贅沢な生活を送っていたので、藩の財政は傾いてしまった。また『和歌山市史』によると、治宝が政治の実権を握っていたため、山高石見守などの斉順側近と山中俊信などの治宝側近との間で深刻な対立が生じた。
先述のとおり、慶福が出生する前に死去し、他に嗣子がいないために、治宝は松平頼学を、附家老水野忠央は将軍家慶の十二男で自身の甥(妹お琴の所生)である田鶴若を擁立しようとしたが、結局異母弟の斉彊が家督を相続した。和歌山藩主としての治世は21年11か月であり、この間の江戸参府8回、和歌山帰国8回、和歌山在国の通算は6年4か月であった[1]。
※日付=旧暦
文化13年の清水家当主時代の主要家臣
【清水家家老】
【番頭】
【用人(兼務者除く)】
文政11年当時の和歌山藩主時代の主要家臣
家老など
用人
城附
西ノ丸附
頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 剛1958-1965 | 宜子1965-現在
分家・支流
頼職 | 断絶
頼方 | 断絶