日野 美澄基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
徳島県鳴門市 |
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生年月日 |
(1934-09-21) 1934年9月21日(89歳) |
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身長 体重 |
168 cm 68 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
内野手 |
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プロ入り |
1957年 |
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初出場 |
1957年4月10日 |
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最終出場 |
1958年9月30日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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日野 美澄(ひの よしずみ、1934年9月21日 - )は、徳島県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。
来歴・人物
鳴門高等学校では、同期のアンダースロー栗橋博(法大)とともに甲子園に4回出場。1950年夏の選手権に控え内野手としてベンチ入り、決勝まで進むが松山東高に敗退[1]。1951年の春の選抜では三塁手として決勝に進み、後に大学同期となるエース中田昌宏を擁する鳴尾高との接戦を制し優勝[2]。1年上のチームメートに遊撃手の大久保英男がいた。同年夏は南四国大会準決勝で高知商に敗退。翌1952年の春の選抜にも遊撃手として連続出場。この大会でも決勝に進むが、静岡商の田所善治郎に完封を喫し準優勝にとどまる[2]。同年の夏の選手権は2回戦で松山商の空谷泰に抑えられ敗退した[1]。
卒業後は慶應義塾大学へ進学し、1年生の春から東京六大学野球リーグに出場。1954年春季リーグで打率.382の好成績をあげ首位打者を獲得。1956年秋季リーグは1年下のエース林薫、2年生左腕の巽一を擁し優勝を飾る。同季はベストナイン(遊撃手)にも選出された。リーグ通算90試合出場、306打数77安打、打率.252、0本塁打、36打点、11盗塁。中田以外の大学同期に衆樹資宏がいる。
1957年に中日ドラゴンズに入団。1年目から一軍に上がり、内野手として10試合に起用される。6月20日には遊撃手、七番打者として初先発出場。翌1958年は29試合に出場。遊撃手、二塁手として5試合に先発するが、打撃成績は低迷し同年限りで現役引退。
引退後は社会人野球に転じ、大昭和製紙、日本コロムビアで活躍した。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
脚注
- ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
関連項目
外部リンク