広瀬 一郎(ひろせ いちろう、1955年9月16日 - 2017年5月2日)は、日本のスポーツコンサルタント、実業家。2013年の静岡県知事選挙では広瀬 イチロー(ひろせ いちろー)名義で立候補した。
株式会社電通第八連絡局、株式会社電通コーポレートコミュニケーション局勤務を経て、株式会社スポーツ・ナビゲーション代表取締役、独立行政法人経済産業研究所上席研究員、スポーツ総合研究所株式会社代表取締役所長、江戸川大学社会学部教授、多摩大学大学院教授、特定非営利活動法人スポーツマンシップ指導者育成会理事長などを歴任した。
広告代理店である電通に勤務し、スポーツイベント事業に携わっていた[1][2][3][4][5]。電通退職後は、自身が設立し経営する「スポーツ総合研究所」の代表取締役を務めている[1][6]。スポーツのマネジメント・マンシップなどを中心とした講演・著書など多数。コメンテーターとして『朝まで生テレビ!』『新・週刊フジテレビ批評』などへの出演歴もあり。
静岡県三島市出身[7]。焼津市立東益津小学校、沼津市立第四小学校、清水町立清水小学校を経て、静岡大学教育学部附属静岡中学校を卒業[8]。静岡県立藤枝東高等学校に進学し[8]、同校ではサッカー部に所属したが、2年生のとき怪我を理由に退部した[9]。その後、東京大学法学部を卒業した[8][10][11][12]。
1980年に電通に入社する[2][3][4][5]。1981年、電通の第八連絡局に配属され、トヨタ担当営業となる[2][3][4][5]。1984年から1994年にかけて、FIFAワールドカップなどサッカーを中心とした団体スポーツのイベントをプロデュースした[2][3][4][5]。その間一時、2002年FIFAワールドカップ日本招致委員会の事務局に出向していた[2][3][4][5]。その後、1997年に電通のコーポレートコミュニケーション局に転属した[2][3][4][5]。1999年には、環境問題について研究するためアメリカ合衆国にてOJT研修を受けた[2][3][4][5]。また、同年より日本プロサッカーリーグの経営諮問委員会にて委員を務めた[2][3][4][5]。2000年にスポーツ・ナビゲーション(のちのワイズ・スポーツ)を設立し、その代表取締役にも就任[2][3][5]。2002年に電通を退職した[2][3][4][5]。
2002年から2004年にかけて、経済産業研究所の上席研究員を務めた[3][4][5]。また、2004年には、自らスポーツ総合研究所を設立し、その所長に就任した[3][4][5]。2012年には、特定非営利活動法人としてスポーツマンシップ指導者育成会を設立し、その理事長に就任した[4][5]。そのほか、江戸川大学の社会学部や多摩大学の大学院にて、それぞれ教授を務めた[3][5]。また、立命館大学のスポーツ健康科学部においては、客員教授を兼任していた[13]。2013年4月11日、自由民主党静岡県支部連合会からの要請を受け、静岡県知事選挙への出馬を表明した[1][14]。それにともない、多摩大学を退職した[15][16]。
自由民主党静岡県支部連合会では同年2月より静岡県知事選挙への準備を進めており、国会議員や中央省庁の官僚ら十数名に立候補を打診していたが、いずれも断られてしまったため、候補者選定は難航していた[17]。その結果、県連幹部が広瀬に立候補を打診し、前向きな反応を得た頃には既に3月上旬になっており[17]、県連として広瀬擁立を決定したのは同年4月8日となるなど[17]、投票日まで残り少ない時間の中での立候補表明となった。自由民主党静岡県支部連合会[18]、日本維新の会静岡県総支部[19] が推薦することを決め、それぞれ党本部に対しても推薦するよう上申した。ところが、静岡県内で大手企業を経営する財界人らが、自由民主党本部に対して推薦の見送りを要請するなど[20]、異例の展開となった。また、中央政界で自公連立政権を構成することから、公明党静岡県本部に対しても推薦するよう広瀬が直接依頼したが[21]、県本部の幹事会では広瀬の政策がわかりにくいとの指摘がなされるとともに、対立候補の政策を評価する声が挙がったことから、推薦を見送ると決定した[22]。公明党静岡県本部は、党本部に対しても広瀬への推薦を見送るよう上申した[22]。
一方、自由民主党では県連が党本部に推薦を上申したものの、党本部としての決定が出ないまま半月以上が経過していた[23]。この事態に危機感を抱いた自由民主党静岡県支部連合会会長の塩谷立らは再び党本部を訪問し、同時期に行われるさいたま市長選挙では推薦を出している点を指摘し「こっち(静岡県知事選)で出ないのはおかしいじゃないか」[24] などの主張を展開し、幹事長の石破茂や選挙対策委員長の河村建夫に対し党本部としての推薦を出すよう懇願した[24]。さらに後日、改めて塩谷と県連政務調査会長の中沢公彦が党本部を訪れ、石破に対して党本部としての推薦を出すよう重ねて要望したが、石破は「何も分からずに推薦できない」[25][26] と回答するなど慎重な姿勢に終始した。この状況を受け、広瀬自身が党本部を訪れ、石破や河村、副総裁の高村正彦、副幹事長の小此木八郎らに対し党本部としての推薦を出すよう依頼したが、石破は党の世論調査の結果を見て判断すると回答した[27]。同年5月28日、自由民主党本部は、広瀬に対する党本部の推薦は見送り、支持にとどめることを正式決定した[28]。県連からの上申を退け、党本部としての推薦を出さなかった理由について、石破は「党全体として総裁の名を冠して静岡の有権者にお願いすることはなかなか困難な点があるのではという意見があった」[29] と説明している。この事態を受け、いったんは推薦を決定していた日本維新の会静岡県総支部も、一転して自主投票とすることを発表し、広瀬への推薦を撤回した[30]。
推薦は得られなかったものの自由民主党本部の支持を得たことから、選挙期間中は谷垣禎一[31]、岸田文雄[32]、茂木敏充[31]、古屋圭司[33] ら第2次安倍内閣の閣僚や、石破茂[34]、野田聖子[35]、高市早苗[35] ら自由民主党の党三役などが次々と応援に訪れた。しかし、対立候補の川勝平太が静岡県知事選挙史上最多の108万票超を獲得したため[36]、3倍以上の票差をつけられた広瀬はトリプルスコアで敗北した[37]。市町村・行政区別の投票数集計では、4倍以上の票差をつけられクアドラプルスコアとなった地域もあるなど[38]、大敗を喫した。
静岡県知事選挙の開票結果が報道された後、選挙事務所にて挨拶し「負けは負け。言い訳するつもりはないが、選挙は素人だから、敗因は分析できない」[39] と主張した。広瀬を擁立した自由民主党静岡県支部連合会では、トリプルスコアでの惨敗という結果に「われわれが支援する知事選候補者としては前代未聞」[40] と衝撃を受けた。県連政務調査会長の中沢公彦が「想像をはるかに超える得票差。党組織のあり方も考えなくては」[41] と発言したが、第23回参議院議員通常選挙を控えていることなどに配慮し、県連幹部の交代などはせずそのまま続投すると発表した[41]。開票翌日には県連会長の塩谷立が党本部にて選挙結果を報告したが、党本部の副幹事長から「恥ずかしい結果だ。支持を出した党本部の対応も問題がある」[42] と自戒するコメントがなされた。また、党本部の幹事長である石破茂は、敗因を分析し「準備不足と知名度不足に尽きる」[43] と指摘している。
しかし、県連執行部が早々に続投を表明したことから自由民主党の市町村支部からは反発の声が挙がった。自由民主党静岡市静岡支部では剣持邦昭支部長が、「一生懸命応援したが、歴史的惨敗だった。県連の責任は逃れられないと思っている。敗因を総括して、支部に報告していただくように申し入れたい」[44] と主張するなど、惨敗の総括と県連が責任を取ることを強く要求した[44]。そのため、静岡市静岡支部の定期大会において、参議院議員の牧野京夫が支部関係者に「知事選ではご心労とご負担をかけた。本当に申し訳なく思っている」[44] と謝罪する事態となった。静岡市長や静岡県議会議員などを歴任した静岡県連常任顧問の天野進吾県議は、市町村支部の憤りに理解を示しつつも、県連執行部は2013年5月に交代したばかりである点を指摘し、現執行部を責めるのは無理があると指摘している[45]。そのうえで、天野は「正直云って、今更ながら腑に落ちない点は、どうして『候補者・広瀬一郎』が誕生したかであります」[46] と述べるとともに、県連関係者にも広瀬を擁立した経緯が未だ説明されていないと指摘し[46]、前執行部の候補者選考過程に疑義を呈している。
その後、静岡県議会の会派「自民改革会議」が議員総会を開催すると、広瀬もこれに出席して選挙での支援について謝辞を述べた[47]。この議員総会は完全非公開の状態で行われたが[47]、その時の広瀬の様子について、天野進吾は「憔悴した『広瀬一郎』氏が顔を出し、最後の別れの言葉を述べていきました。『これから東京に行きます』の言葉には、2度とこんな悲哀は味わいたくないの感慨と共に、『静岡との決別』の意図が込められていたよう私には感じられました」[48] と語っている。その後、広瀬の経営するスポーツ総合研究所の公式ウェブサイトにて、広瀬が2017年5月2日に逝去していたことが発表された[49]。
経営品質協議会認定セルフアセッサーの資格を所持している[2][3][4][5]。自身のふるさとについては、下田市での演説では「伊豆の出身です」[56] と発言し、静岡市での演説では「私は静岡出身の静岡っ子だ」[1] と発言している。なお、公式ウェブサイトには「出身地:静岡県三島市」[7] と記載されている。また、東京電力や日本プロサッカーリーグについて論じたブログの中においては、「我が家は私で3代目だが、初代も2代目も、日本脱出を試みて果たせなかった。4代目の我が家の豚児達が、3代果たせなかった夢を実現するのだろうかと考える日々」[61] と記しており、日本を脱出するのが夢だったと語っている。静岡県知事選挙に出馬した際のキャッチフレーズは「静岡を、取り戻す」[1] であった。
大阪市長を経て貴族院議員を務めた關一の母親と、広瀬の祖父はきょうだいであるため[62]、關一は広瀬のいとこおじにあたる。また、關一の孫であり同じく大阪市長を務めた關淳一は、広瀬の再従甥にあたる。
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