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川本 徳三(かわもと とくぞう、1934年10月24日 - )は、広島県広島市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。
基町高校では1951年、2年生エースとして広島県大会でチーム初のベスト4まで進出した。この年に広島カープ後援会が川本に目を付け、左投手不足のチーム事情もあって、広島に入団させるため勧誘した[2]。高校2年生と言うこともあって何度も入団を拒否していたが、3年次の1952年には自宅近くで電器店を営む後援会役員[3]に石本秀一監督の所へ連れて行かれた[4]。尾道西高グラウンドの紅白戦[3]に呼ばれ、前年の県大会で投げ合い、すでに広島へ入団していた大田垣喜夫の投げている姿を見た。石本から「入ってやってみんか」と言われ、開幕6日前の1952年3月15日、ついに入団を決意した[2]。
1年目の同年は8月27日の巨人戦(長野松本)で先発の杉浦竜太郎が立ち上がりに打たれ、2回からリリーフ、後を0封して認められた[4]。当時の巨人打線は千葉茂、川上哲治、青田昇、与那嶺要、宇野光雄という強力打線であり、この時の好投で自信を掴んだ[4]。2年目の1953年には5月26日の巨人戦(福井)で中尾碩志、別所毅彦と投げ合って初勝利[4]。エース長谷川良平が8月初めに足首を捻挫して約1ヶ月戦列離脱し、カープは重大なピンチに見舞われたが、川本の左腕が冴えて同月に4勝して危機を救った[4]。この年、カープは球団創立4年目で初めて4位になり、川本も自己最多の7勝を挙げた[4]。身長173cmと小柄であったが、ストレートは指が短かったためにナチュラルに変化するクセ球で[4]、捕手泣かせも効果的であった[3]。定評のあるキレのいいカーブ、シュート、プロに入って習得したスクリューとシンカーが武器であり、特にスクリューは左腕特有の落ちて逃げる球[4]で得意であった[3]。投球する時に舌を出す癖と童顔から、人気キャラメルの名前に因んで「ミルキー」の愛称で親しまれ[2]、巨人戦には強い投手であった[2]。1958年引退。
引退後の1959年、広島の初代スコアラーに就任[2]。数字に明るく几帳面な性格からスコアラー転身後に打球のコース、球質を加味して分類、集計する独自の個人別スコアシートを考案[3]。親会社・東洋工業の電算室と協力して1年間の選手データを分析、科学的な検討を加えた画期的な守備体系を編み出した[3]。白石勝巳監督に進言して、1964年5月5日の巨人戦(後楽園)で初めて王シフトを実現した[2]。1966年から1967年は一軍投手コーチを務め、安仁屋宗八を育てた[2]。退団後は広島市中央卸売市場に隣接するスーパーの配送センターに勤務した[4][3]。
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