岩村 清一(いわむら せいいち、1889年〈明治22年〉9月14日 - 1970年〈昭和45年〉2月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
東京府芝区(現・東京都港区)出身。1889年(明治22年)9月14日、岩村定高(初代三重県令:現在の知事)の子として生まれる。
旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第37期入校。入校時成績順位は180名中第54位、卒業時成績順位は179名中第8位。その後、海軍大学校甲種19期を29名中首席で卒業。
岩村の妻は高木八尺東大教授の妹。 評論家・医学博士の加藤周一は大甥。
岩村の同期に、井上成美海軍大将、小沢治三郎、草鹿任一、浮田秀彦、小松輝久、桑原虎雄、桑折英三郎、大川内伝七海軍中将、岩下保太郎海軍少将などがいる。
岩村はイギリスと中国情勢とに明るく、また軍政軍令勤務を均等に経験するなどバランスがとれた海軍軍人であった。
殊に、第一次世界大戦中に於ける岩村自身のヨーロッパでの見聞や、ロンドン軍縮会議全権随員を務めた経験から、対英米戦わずとの信念を固め、軍令部権限拡充問題では権限拡充反対に固執した井上軍務局第1課長に同情的態度だったと伝えられている。
ロンドン軍縮条約失効直後に海軍省艦政本部勤務となり軍備拡張に奔走した。
岩村は1943年(昭和18年)に第2南遣艦隊司令長官に親補されたが、艦隊司令部が設置されたアンボンに於いて、一般兵士が現地一般住民に対し起こした事件が原因で任を解かれ、翌年予備役に編入された。
晩年は東京都世田谷区代沢(池ノ上駅)に於いて静かな余生を過ごしたという。
井上は海軍兵学校同期では岩村と岩下と仲が良く最も信頼をおいた人物だったという。岩村は太平洋戦争敗因の原因の1つにファイリングシステムの不備を指摘。カナタイプライター普及に尽力した。