山本 一清(やまもと いっせい、1889年(明治22年)5月27日 - 1959年(昭和34年)1月16日)は、滋賀県出身の天文学者。滋賀県出身者として最初の天文学者・理学博士(博士登録番号227番、天文学専攻としては国内8人目の理学博士)。
山本一清は1889年(明治22年)5月27日、滋賀県栗太郡上田上村桐生(現:大津市桐生1丁目)に生まれる。山本家は代々医療を生業とし名字帯刀を許されていた。父美清(祖父清之進の名を継ぐ。また、山本椋亭とも称した)は野洲郡津田家から養嗣子として山本家に入り、教師として児童教育に尽力した。山本一清の命名は祖父山本清之進が行い、橘良基治世之要の「難有百術、不如一清」より二字が用いられた。祖父山本清之進は県会議員を勤めると共に漢詩や和歌の作者としても名を知られており、巌谷修(巖谷一六)とも書を通じ親交があった[1]。
山本は1902年(明治35年)膳所中学に入学し、1907年(明治40年)3月同中学を首席で卒業。卒業後第三高等学校入学までの間、滋賀郡滋賀尋常高等小学校と甲賀郡水口高等小学校で子供たちを教え、同年9月第三高等学校に入学する。1910年(明治43年)9月、当初電気工学科に合格していたが転科が認められ京都帝国大学理工科大学物理科に転籍、その年の5月に径4mドームに口径18cmの望遠鏡がハレー彗星観測のため据え付けられた大学に天文専攻生第一号として入学した[1]。
1913年(大正2年)7月京都帝国大学理工科大学物理学科卒業後直ちに大学院に入学し、同年12月に滋賀県栗太郡治田村(現在草津市と栗東市にまたがる)の川崎英子と結婚する[1]。翌1914年(大正3年)4月大学助手となり、5月水沢緯度観測所に赴任し、緯度変化と気象との関係を研究するため文部省測地学委員会の嘱託に命じられ大学より派遣された[2]。1915年(明治4年)4月大学講師に任じられる。なお、1916年(大正5年)より1922年(大正11年)の間、毎年夏に測地学観測委員会の委嘱に基づき関東および新潟・長野の約280地点で重力測定を行った[1]。
1918年(大正7年)6月鳥島での日食観測を行い、同年10月大学助教授に任じられた。1920年(大正9年)9月日本で最も歴史の長い天文同好会(略称・OAA)を結成した。なおOAAの結成時の正式名称は「天文同好会」で、その後「東亜天文協会」と改称、さらに現在の名称である「東亜天文学会」に改名した。1922年9月文部省在外研究員としてアメリカを中心にイギリス・ドイツ・フランスに留学し、1925年(大正14年)3月帰国。翌4月京都帝国大学理学部(1919年(大正8年)分科大学を学部に改称)教授に就任した。同年7月論文「大気ニヨル光線屈折ノ効果研究ノ為 水沢ニ於テ行ヘル緯度変化ノ同時観測」提出により理学博士学位を受ける[1][3]。
1926年(大正15年)山本等の「天文学の発展のためには、専門家でなくても天体観察ができる天文台が必要」だとする主張に啓発され、倉敷紡績専務原澄治の出資により倉敷天文台が竣工した。1929年(昭和4年)10月には京都帝国大学における前任者新城新蔵博士(後に第八代京大総長)から受け継いだ花山天文台が開台され、山本は初代台長に就任した。1935年(昭和10年)、パリで開催された国際天文学連合 (The International Astronomical Union:IAU) 第36回総会において黄道光委員会初代委員長に就任した。IAU委員会において日本人が専門部会の委員長となったのは山本が最初であった[2]。1937年(昭和12年)3月には勲三等に叙され、同年に広島県瀬戸村(現福山市郊外)で黄道光観測所が開所した[4][5]。
1935年(昭和10年)頃より、山本を嫉視する者から山本を中傷する匿名文書が大学や文部省・関係者に郵送され、果ては当時京都帝国大学内で起きた汚職問題に山本が絡んでいるとのデマまで出回り、1937年(昭和12年)には大学より辞職勧告を受けるに至った。山本としては理由が無い辞職はできず、汚職に関しては検事局が調査したが問題も出ず一年を越した所で、1938年(昭和13年)5月31日に大学を依願退職した[1]。
大学を退職したその年8月、ストックホルムでIAU総会があり山本は引き続き黄道光委員会の委員長に留任。9月にはスウェーデン天文史学会名誉会員に推挙された。1940年(昭和15年)10月には実家での天文台建設に着手、11月より天文観測を行いながら建設を行い1942年(昭和17年)5月私設の山本天文台(田上天文台)が竣工した[5][6]。
戦後政治の世界にも自らの理想実現を求め衆議院選挙・滋賀県知事選挙に立候補するが落選、1948年(昭和23年)8月村議会の要請により上田上村長に無投票当選したが、翌年村議会と対立し辞任した。晩年には地元ボーイスカウトの運営にも携わり、1959年(昭和34年)1月16日滋賀県草津市の長男宅で没した。生涯を通じてプロの天文学者とアマチュア天文家の橋渡しをし、天文学の広範な普及・発展に大きく貢献した。
ドイツの天文学者カール・ラインムートが1942年に発見した小惑星2249 には、軌道計算をした中野主一の提案により「Yamamoto(山本)」と命名されている[7] 。
年譜[8]