山内(さんない)は秋田県秋田市にある大字である。郵便番号は 010-0823。
地理
秋田市の北東部、旭川の上流に位置する。北東から南西へ向けて旭川が流れ、南北を尾根に挟まれた谷地である。旭川と並行して秋田県道15号秋田八郎潟線が貫通し、田中・藤倉・小田などの集落や農地が点在する。上台・大畑・小田の境界付近に、近代化遺産指定された藤倉水源地がある。また、丸木橋に秋田東病院がある。
北東(旭川上流)は仁別、東・南東は太平八田、南は柳田,南西(旭川下流)は添川、西は上新城道川、北西は上新城湯ノ里、北は上新城白山に接する。
小字
12の小字が設置されている[3]。
- 字荒田(あらた)
- 字市王寺(いちおうじ)
- 字大畑(おおはた)
- 字小田(おだ)
- 字上台(かみだい)
- 字正面田(しょうめんでん)
- 字田中(たなか)
- 字藤倉(ふじくら)
- 字増沢(ますざわ)
- 字松原(まつばら)
- 字丸木橋(まるきばし)
- 字女夫石(めおといし)
河川
歴史
出羽国秋田郡助河村として成立したとされる。山内の名は南北朝時代から確認され、1349年(貞和5年 / 正平4年)に月泉良印が「山内邑奥松原之郷」に曹洞宗亀像(蔵)山補陀寺を開いたとの記録が初見である[4]。旭川沿いの道の他、秋田城・土崎港から新城川を遡り山を越える道もあり交通の便が良いため、古代から拓けていた[4]。
戦国時代の1591年2月10日(天正19年1月17日)、「豊臣秀吉朱印蔵入帳写」に「山内村 172石余」とあり、1597年(慶長2年)時点での物成は40石、翌1598年(慶長3年)には10石であった[4]。また、1592年9月27日(文禄元年8月22日)の「秋田家分限帳写」では、鍋倉右近代官所のうちに「山内村 240石」とある[4]。
江戸時代には久保田藩領で、1603年(慶長8年)の村高は143石と推定されている[4]。「正保国絵図」では山内新田村の本田当高141石とされているが、「元禄七郡絵図」では265石と増大している[4]。「享保黒印高帳」では村高248石余・当高228石余(うち本田144・本田並38・新田46)[4]。「享保郡邑記」では59軒あって、うち枝郷の藤倉・石上・下台・種台の4ヶ村分が38軒となっている[4]。「寛政村附帳」では親郷泉村の寄郷とされ、当高203石余(うち蔵分146、給分57)[4]。「秋田風土記」では78戸(枝郷4戸)があり、230石[4]。「天保郷帳」では228石余で、この頃の人口は380人・馬60頭であった[4]。
沿革
字域の変遷
地区内で区画整理・住居表示実施などに伴う字名・町名の変更は行われていない。
世帯数と人口
2016年(平成28年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小字 |
世帯数 |
人口
|
山内字小田 山内字上台
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15世帯
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40人
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山内字正面田 山内字丸木橋
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22世帯
|
170人
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山内字田中 山内字女夫石
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40世帯
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107人
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山内字藤倉
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12世帯
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28人
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山内字松原
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5世帯
|
18人
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計
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94世帯
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363人
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交通
鉄道
かつては仁別森林鉄道で、沿線住民の利便のために旅客列車も走っていたが、現在地区内に鉄道路線は通っていない。最寄り駅は中通七丁目にあるJR東日本奥羽本線・羽越本線・秋田新幹線の秋田駅。
バス
- 秋田中央交通 仁別リゾート公園線
- (添川方面) - 補陀寺前 - 松原 - 松原上丁 - 丸木橋 - 藤倉下丁 - 藤倉 - 釣センター前 - 藤倉上台 - (仁別方面)
道路
施設・史跡
補陀寺
藤倉神社
- 字大畑
- 字小田
- 字上台
- 字田中
- 字藤倉
- 字松原
- 字丸木橋
- 字女夫石
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 5 秋田県』1980年。
- 秋田市『秋田市史 第四巻 近現代I 通史編』2004年。
- (財)日本森林林業振興会秋田支部・青森支部『近代化遺産 国有林森林鉄道全データ 東北編』秋田魁新報社、2012年。ISBN 978-4-87020-325-9。
- 秋田市 地名小辞典
脚注
外部リンク
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※地域区分(秋田市の人口・世帯で使用されているもの)ごとに分割し、更にその中で冠称を同じくする町・字をまとめた。 平成の大合併で編入された旧2町は昭和の大合併における旧々町村の単位でまとめた。 |
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