大橋 國一(おおはし くにかず、1931年(昭和6年)10月21日 - 1974年(昭和49年)3月21日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、オペラ歌手。ヨーロッパの歌劇場と専属契約を結んだ最初の日本人歌手[1][2]であり、日本人歌手の海外進出の嚆矢となった。しばしば新字体で大橋国一と表記される。
東京府出身。東京都立新宿高等学校時代にコーラス部に入ったのがきっかけで、声の良さを認められ1951年(昭和26年)に東京藝術大学に入学[1][2]。在学中の1954年(昭和29年)に二期会 ジャン・カルロ・メノッティ『アマールと夜の訪問者』(日本初演)バルタザール役でデビュー[1][2][3]。1955年(昭和30年)東京藝術大学卒業。1956年(昭和31年)同大学専攻科修了[4]。長坂好子に師事[4]。在学中からその声量の豊かさ、見栄えのいい体軀から将来を属目されていた[4]。
1958年(昭和33年)からウィーン国立音楽アカデミー(ウィーン国立音楽大学)に3年間留学。1960年(昭和35年)にはウィーン・コンツェルトハウスでバッハ『ヨハネ受難曲』のイエズスでウィーンデビュー。同年11月にはヒンデミット『世界の調和』ウィーン初演(演奏会形式)にも出演[1][2]。1961年(昭和36年)のザルツブルク州立歌劇場との正式契約を皮切りに、1963年(昭和38年)にはオーストリアでウィーン国立歌劇場に次ぐ格式を誇っていたグラーツ歌劇場、1968年(昭和43年)には西ドイツのケルン市立歌劇場と、いずれも第1バスとして専属契約[1][2]。身長175センチ、外国人に比べれば決して大柄ではなかったが、声、容姿、演技の三拍子そろった歌手[5]として、本場のオペラファンをも魅了した[1][2]。1966年(昭和41年)にはアルゼンチン・ブエノスアイレスのテアトロ・コロンでのワーグナー『さまよえるオランダ人』に出演。本場の第一線で活躍し、国際的スケールの大きい芸域の持ち主として認められ、不動の地位を築いた[4]。
大橋は先駆者として、後輩歌手たちのヨーロッパ進出も助けている。1972年(昭和47年)に日本人で初めてバイロイト祝祭劇場と契約し舞台に立った河原洋子も大橋がバックアップした一人だという[1][2]。
ヨーロッパで活動しながらたびたび一時帰国し、日本においてはバス、バリトンを代表する歌手として数多くのコンサートに出演した。オペラにおいてはドン・ジョヴァンニ、フィガロ、ザラストロ、エスカミリオなどの役を得意とし、二期会や藤原歌劇団などの看板歌手として1950年代後半 - 1970年代前半の日本のオペラ界を牽引し数々の大舞台で主演した(出演した公演と配役は別掲)。とくにワーグナー歌劇の日本初演で大きな役割を果たすなど、大戦後、日本の生んだ名歌手だった[4]。また、新芸術家協会に所属した、ただ一人の日本人声楽家であった[1][2]。
コンサートにおいても宗教曲や『第九』など、第一線のオーケストラ、指揮者、声楽家と数多く共演している。
ソプラノ歌手の田中千恵子[6](大阪芸術大学 芸術学部 演奏学科 教授[7])が大橋に師事している。
しかしながら、結腸がんを発病し、1971年(昭和46年)に手術を受け、いったんは回復しヨーロッパに戻ったものの、1973年(昭和48年)11月に再発[8]。結腸がんが肝臓に転移[8]し、すでに手の施しようのない状態だった。大橋は母一人子一人で育ち、母親はすでに79歳であったため、病名は夫人の京子とその両親、兄弟だけに伝えられ、本人と母親には最後まで伏せられた[8]。オペラ出演の最後は同年11月のモーツァルト『魔笛』。12月はベートーヴェン『第九』のシーズンで、痛み止めを渡されながら大阪、和歌山、京都などを歌って歩いた[8]。1974年(昭和49年)1月のNHKニューイヤーオペラコンサートが最後の舞台となった[1][2][8]。同年3月21日に、自宅において[1][2]、惜しまれつつわずか42歳で死去した[1][2]。
現認できるもののみを記した。
短い生涯に加え、主にヨーロッパで活動していたもかかわらず、NHKだけでも出演歴は約90回にのぼる[61][62]。2015年(平成27年)にはNHK-FM『クラシックの迷宮』において「昭和の名歌手大橋国一」[63]と題した特集番組が放送されるなど、いまだ重要な存在として取り上げられている。
国立国会図書館デジタルコレクションによる[68]。
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