武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、大正元年(1912年)12月10日 - 昭和63年(1988年)7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ[1]、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。
日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員[1]。
1912年、大阪市梅田に生まれる。父は工学エンジニアの正次郎、母は徳島の名妓だった尾寅。正次郎は京都大学土木科卒、基礎工事の発明で海外でも特許を得ていた。この武智家の財力が鉄二の活動の基盤となる。
1932年、甲南高等学校 (旧制)を経て京都帝国大学経済学部入学、1936年に卒業[2]。1939年、個人雑誌『劇評』を創刊。のちに『観照』(1946 - 1952)と『演劇評論』(1953 - 1956)も刊行している[3]。1941年、「創造劇場」として『絵本太功記』「十段目」を上演。「創造劇場」は若手歌舞伎俳優の研究団体で、武智は鴻池幸武と共同で演出にあたった[4]。1944年、吉田幸次郎、片山博通を同人として5月1日に「断絃会」を発足[5]。私財を投じて伝統芸術の保護に努める[1]。
1949年、「関西実験劇場」として『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」と『新版歌祭文』「野崎村」を大阪文楽座で上演、1952年12月まで断続的に続く[6]。武智の演出は「武智歌舞伎」と呼ばれ好評を博す。四代目坂東鶴之助と二代目中村扇雀の二人がスターになる。1950年、谷崎潤一郎作『恐怖時代』を血みどろ演出で上演、谷崎を感心させる。
1952年、雑誌「歌舞伎評論」を刊行開始[1]。1954年、「歌舞伎評論」を同人組織の「演劇評論」に発展させて盛んに批評を行うが、これがきっかけで松竹と対立するようになった[1]。『夕鶴』『東は東』上演。『お蝶夫人』の演出により第6回毎日音楽賞を受賞[7][8]。1955年、『月に憑かれたピエロ』上演。大阪市民文化賞受賞[1]。
1957年、西村みゆきと結婚、西村姓となる。それまで正妻と愛人の二人に苦しんでいたのを清算するものだった[9]。1958年、西村と別れ、日本舞踊家の川口秀子と結婚、川口姓となる。
1963年、映画監督作品『日本の夜 女・女・女物語』公開。1964年、谷崎潤一郎原作の映画監督作品『白日夢』公開。全編にわたり裸体を前面に押し出した例を見ない作品であったため[10]、警視庁は映倫にカットを要請。猥褻映画として話題になる。1965年、映画監督作品『黒い雪』公開。6月4日に警視庁はわいせつ図画公然陳列罪で武智を含めた関係者を書類送検、本人は起訴を望み裁判となる。1969年二審の東京高裁で無罪確定(詳細は「黒い雪裁判」を参照)1968年、映画製作の武智プロダクションを設立。映画監督作品『戦後残酷物語』公開。1974年、参院選に自民党公認で出馬するが落選。選挙が目的ではなく、選挙資金で選挙と関係のない「選挙パンフレット」を作成しており、自民党からクレームが出るも無視した。
1978-81年、『定本 武智歌舞伎』(三一書房)を刊行。1981年、1964年の映画監督作品『白日夢』を再度製作、公開。愛染恭子と佐藤慶のセックス・シーンが「ホンバン」として話題になる。1983年、映画監督作品『華魁』公開[12]。また同年、監督作品『高野聖』製作(泉鏡花原作、日本劇場未公開)。
1988年、膵臓癌により死去。75歳没。1989年、日本オペラ協会 清水脩『修善寺物語』が「武智鉄二を偲ぶ」と題して上演される。
昭和音楽大学オペラ情報センターの記録[13]による。