吉田学

吉田よしだ まなぶ
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生誕 1927年2月24日
日本の旗 日本 岐阜県
死没 (2011-06-07) 2011年6月7日(84歳没)
日本の旗 日本 東京都 世田谷区
所属組織 大日本帝国海軍
海上保安庁
海上警備隊
警備隊
海上自衛隊
軍歴 1943年 - 1945年(帝国海軍)
1952年 - 1954年(警備隊)
1954年 - 1985年(海自)
最終階級 海軍兵学校生徒(帝国海軍)
海上幕僚長たる海将(海自)
除隊後 財団法人水交会会長
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吉田 学(よしだ まなぶ、1927年昭和2年〉2月24日 - 2011年平成23年〉6月7日[1])は、日本海軍軍人海上保安官海上自衛官。第15代海上幕僚長。海上自衛隊におけるイージス艦導入を推し進めた人物。

略歴

岐阜県出身。旧制恵那中学校から1943年(昭和18年)12月1日、海軍兵学校第75期生として入校した。入校の動機は零戦パイロットに憧れたからで兵学校では航空班となる[2]。しかし、終戦により1945年(昭和20年)10月1日、兵学校が閉校となり、最後の卒業生となった[3]。戦後は復員局海防艦第八十五号に乗組み復員業務に従事し、旧海軍駆逐艦」を賠償艦としてソ連に引渡すためナホトカまで回航する業務にも従事した[2]。終了後は故郷に帰り大学に進む準備をするつもりであったが、兵学校時代の教官から「いまに海軍ができる。それまでつないでくれるのは75期だ[4]。できたら残ってほしい」と言われ海上保安庁の前身である「不法入国船舶監視本部」に籍を置き、巡視船に乗組む。しかし、兵学校は卒業したが、任官していないため二等海曹(下士官)の待遇であった[2]1948年(昭和23年)5月、海上保安庁が設置され、海上保安官として第八管区海上保安本部舞鶴)で勤務した。

1952年(昭和27年)6月、海上警備隊発足により転官した。海上自衛隊では、主に艦艇で勤務し、中央勤務では海幕防衛班長や防衛部長等を務めた。防衛班長時代には周辺海域の海上防衛能力の強化を目指し、全通甲板型のヘリコプター搭載大型護衛艦(DLH)を計画するが、計画は通らなかった[2]。防衛部長の時には米海軍との共同対処能力の向上を目指し、1980年(昭和55年)の環太平洋合同演習(リムパック)に部隊を初参加させることに尽力した[2]。その後、大湊地方総監、海幕副長等の要職を歴任し、第15代海上幕僚長に就任した。

海幕長としては56中業に携わり海上自衛隊として将来の方向性を見定めた海上防衛力の強化に努め、シーレーン1,000海里防衛構想に必要と考えられた軽空母シーハリアーなど様々な装備の調達を模索している中、一頭ずば抜けた防空能力を持つイージス艦に白羽の矢を立てた。予算面については第2次中曽根内閣のもとで大幅な増額が認められていたが、肝心のアメリカイージスシステム供与に関して交渉が難航していた。吉田はアメリカ海軍作戦部長ジェームズ・ワトキンス大将に毎週にわたって複数枚の説得の手紙を送った。その結果、一世代遅れたイージスシステムの供与の提案がされたが根気よく説得し、さらにジェームズ・アワーの説得によりリチャード・アーミテージ国防次官補代理も最新型を認める決断をした。これらの難交渉の末、夏目晴雄防衛事務次官の最終同意のもと当時最新型のイージスステムの導入が進められる事となる。吉田の退官から8年後の1993年(平成5年)3月、海上自衛隊初のイージス艦「こんごう」が就役した[要出典]

年譜

栄典

関連項目

脚注

  1. ^ a b 時事ドットコム:吉田学氏死去(元海上幕僚長、元海将)
  2. ^ a b c d e オーラル・ヒストリー四次防までの防衛力整備計画と日米安保体制の形成(防衛省防衛研究所戦史研究センター 編)
  3. ^ 入学時の校長は井上成美、卒業時の校長は栗田健男。75期卒業生には三好達最高裁判所長官がいる。
  4. ^ 74期以前の海軍士官公職追放となっていた。
  5. ^ 『官報』本紙第5596号(平成23年7月13日)

参考文献

  • 世界の艦船』2002年5月増刊号 海上自衛隊の50年(海人社)
  • 『海の友情』阿川尚之 著(中公新書)2001年
  • オーラル・ヒストリー四次防までの防衛力整備計画と日米安保体制の形成(防衛省防衛研究所戦史研究センター 編)
先代
前田優
海上幕僚長
第15代:1983年 - 1985年
次代
長田博
先代
穗積釮彦
海上幕僚副長
第16代:1981年 - 1983年
次代
山田善照
先代
松井操
大湊地方総監
第18代:1980年 - 1981年
次代
山田善照

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