北小路随光

 
北小路 随光
時代 幕末 - 大正時代
生誕 1832年4月1日天保3年3月1日
死没 (1916-11-22) 1916年11月22日(84歳没)
官位 左京権大夫正三位
正二位子爵
主君 仁孝天皇孝明天皇
明治天皇大正天皇
氏族 藤原北家日野流柳原家支流北小路家
父母 父:北小路説光
北小路久子
実子:資武
養子:光典燁子
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北小路 随光(きたこうじ よりみつ[1][2]1832年4月1日天保3年3月1日〉 - 1916年大正5年〉11月22日)は、幕末公卿明治時代から大正時代にかけての華族神祇官僚、司法官僚。子爵伊勢神宮大宮司

生涯

誕生、そして公卿へ

天保3年3月1日1832年4月1日)、北小路説光の長男として誕生する[3]。母は家女房[3]

天保7年1月15日1836年3月2日)、叙爵[3]弘化2年12月5日1846年1月2日)、元服して昇殿を許され、越後権介従五位上に任叙された[3]

弘化3年3月4日1846年3月30日)、仁孝天皇崩御に伴う当色を、3日後の3月7日4月2日)には素服を賜わり、4月4日4月29日)に除服宣下を受けた[3]

以降順調に昇叙していき、万延2年(文久元年)1月5日1861年2月14日)、従三位に叙されて公卿に列せられた[3]

元治元年11月27日1864年12月25日)、白鳥神社神主猪熊慶歓の五女久子を妻として迎え入れた[1][4]

慶応元年11月16日1866年1月2日)、帯剣を許されて同日拝賀、同年11月19日1866年1月5日)には豊明節会の外弁を務め[5]、慶応2年1月1日(1866年2月15日)には元日節会の内弁を務めた[6]

廷臣二十二卿の一人

慶応2年8月30日(1866年10月8日)酉刻(午後6時頃)、随光は中御門経之大原重徳高倉永祜千種有任岩倉具綱岩倉具定大原重朝ら22名と参内して、御学問所で意見書を提出した(廷臣二十二卿列参事件[7]。これは、幕府の意向を受けて朝廷を左右させる関白二条斉敬賀陽宮朝彦親王武家伝奏野宮定功らを退け、先年に処分された廷臣を赦免し、長州再征の結果を停戦ではなく終戦にすることなどを求めたものである[8]。この意見は聞き入れられず、風紀を乱す者として同年10月27日12月3日)、随光ら20名は差控の処分を受けた(勅勘[4][9][注釈 1]。しかし同年中に孝明天皇が崩御すると[注釈 2]、慶応3年3月29日1867年5月3日)、崩御の公式発表日から100日目となり、随光を含めた廷臣二十二卿は赦免された(勅免)[11]

慶応4年1月15日1868年2月8日)、明治天皇の元服に参仕した[12]

復興神祇官僚として

明治元年12月19日1869年1月31日)、神祇官出仕を命じられ[4]、4日後の12月23日2月4日)には神祇官権判事[2][4]、翌明治2年5月21日(1869年6月30日)に神祇官判事に任じられた[4][13]。いずれも左京権大夫の地位に在ったままである[4]。同年7月8日8月15日)、百官が廃止され、左京権大夫職を失った。同日、神祇官が太政官より特立すると[14]7月11日8月18日)、神祇大祐に任じられた[13]7月21日8月28日)には、鎌倉宮鎮座に際して参向した[4]。また神祇官僚として、諸社の大祭に奉幣使として参向した[4]。明治4年5月20日1871年7月7日大嘗会御用掛に任じられた[2]

神宮大宮司とその後

明治4年7月5日(1871年8月20日)、新政府の神宮改革に伴い、神祇大祐から伊勢神宮大宮司に転任した[13][注釈 3]。同年7月14日8月29日)、伊勢へ赴いた[4]。明治5年7月18日1872年8月21日)には教導職権中教正を兼任した[2]。明治6年(1873年1月9日、大宮司・権中教正を辞した[16][注釈 4]

明治9年(1876年5月20日宮内省に雇われ梅宮御用掛を命じられるが[4]、内親王が6月8日に薨去したため[17]7月23日に辞した[4]。明治12年(1879年10月22日には明宮祗候を命じられるが、翌明治13年(1880年4月2日に辞した[4]

子爵叙爵と柳原本家

明治8年(1875年3月25日、実子が無かったため、本家柳原家より柳原和麿を養子にすることを願い出て[1][18]、同年4月2日に養子に迎え入れた[4]。しかし、明治11年(1878年5月5日、妾の鈴木よきが庶男子資武を出産した[1][19]。そのため和麿(のち改名して光典)の立場が失われ、明治16年(1883年10月17日に養子縁組を解消した[1]

明治17年(1884年7月8日子爵となった[20]。このとき随光は、司法省十七等出仕(1880年11月4日補)、司法九等属(1882年7月20日任)を経て、子爵叙爵後の7月15日には司法八等属に任じられたが、翌16日には非職となった[4]。また翌年(1885年3月21日には明宮祗候を再び命じられた[4]

明治27年(1894年)、光典養子縁組解消の善後策として両家が取り決めていた通り、柳原燁子を資武の将来の結婚相手として養女にした[21]。ここで、秘密裏の資武の乱暴さに疲弊した燁子を見かねて明治33年(1900年)に結婚させ、翌明治34年(1901年4月23日には随光にとって孫にあたる功光が生まれた[1][22]。同年11月、京都に転居した[23]。そこで燁子は孤独を深め、明治39年(1906年5月25日、功光を北小路家に残すことを条件に息子夫婦はついに離婚した[1][23]

前神宮大宮司の晩年

明治44年(1911年1月31日、80歳という高齢により、明治天皇より御紋付御杯と酒肴料を下賜された[24]。明治45年(1912年4月22日には高齢のため宮中杖を賜った[25]

大正3年(1914年)10月、日本の第一次世界大戦参戦を国難と捉えた中山忠英が日本精神作興のため大日本皇道立教会を設立すると、その賛助員として名を連ねた[26]

大正4年(1915年7月16日、妻・久子に先立たれる[1]

大正5年(1916年11月22日、84歳(数え85歳[2])で薨去した[1][27]

官歴 / 栄典

公卿以前は『公卿補任』, 孝明天皇文久元年条を参照した。

律令制下

維新以後

位階
下賜

系譜

出典が無い限り霞会館編 1996a, p. 491を参照した。

脚注

注釈

  1. ^ 中御門経之・大原重徳は閉門を命じられた[9]
  2. ^ 崩御日は慶応2年12月25日(1867年1月30日)だが、睦仁親王の践祚や関白二条斉敬摂政就任の手続き等のため、4日後の12月29日2月3日)に、公式に発表された[10]
  3. ^ 『神宮要綱』では同年7月24日9月8日)となっている[15]
  4. ^ 後任は本荘宗秀[16]
  5. ^ 同日の正三位北小路説光(父)の薨去による[28]
  6. ^ 明治6年(1873年)5月5日の皇居出火に際しておこなった30円の献金の功[31]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 霞会館編 1996a, p. 491.
  2. ^ a b c d e 阪本是丸 1986, p. 117.
  3. ^ a b c d e f g 『公卿補任』, 孝明天皇文久元年条.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「北小路家傳」.
  5. ^ a b c 『公卿補任』, 孝明天皇慶応元年条.
  6. ^ 『公卿補任』, 孝明天皇慶応二年条.
  7. ^ 刑部芳則 2018, p. 194.
  8. ^ 刑部芳則 2018, p. 194–195.
  9. ^ a b 刑部芳則 2018, p. 199.
  10. ^ 刑部芳則 2018, p. 202.
  11. ^ 刑部芳則 2018, p. 208.
  12. ^ 『公卿補任』, 明治天皇明治元年条.
  13. ^ a b c 「元神祇大祐北小路隨光勤続賜物ノ上申」.
  14. ^ 阪本是丸 1999, p. 143.
  15. ^ 神宮司庁編 1929, p. 657.
  16. ^ a b 神宮司庁編 1929, p. 658.
  17. ^ 霞会館編 1996a, p. 12.
  18. ^ 「柳原前光弟和麿ヲ北小路隨光養子ニ差遣度願」.
  19. ^ a b 人事興信所編 1911, p. き63.
  20. ^ 『官報』第308号 1884, p. 2, 「叙任」.
  21. ^ 千田稔 2002, p. 88.
  22. ^ 千田稔 2002, pp. 88–89.
  23. ^ a b 千田稔 2002, p. 89.
  24. ^ 『官報』第8281号 1911, p. 13, 「宮廷録事:恩賜」.
  25. ^ 『官報』第8649号 1912, p. 23, 「宮廷録事:宮中杖差許」.
  26. ^ 山蔭基央 1982, pp. 355–356.
  27. ^ 『官報』第1296号 1916, 「彙報(官庁事項):有爵者薨去」.
  28. ^ 『公卿補任』, 孝明天皇安政三年条.
  29. ^ 『官報』第2391号 1891, p. 1, 「叙任及辞令」.
  30. ^ 『官報』第5390号 1901, p. 1, 「叙任及辞令」.
  31. ^ 『官報』第230号 1884, p. 5, 「彙報:褒賞」.
  32. ^ 霞会館編 1996b, p. 410.

参考文献

史料

  • 「元神祇大祐北小路隨光勤続賜物ノ上申」『公文録:明治六年十月教部省伺』1873年。  - 国立公文書館蔵
  • 「柳原前光弟和麿ヲ北小路隨光養子ニ差遣度願」『公文録:明治八年三月三府並華族伺』1875年。  - 国立公文書館蔵
  • 「北小路家傳」『華族系譜73:北小路家・北畠家・北大路家・北河原家』。  - 宮内庁書陵部蔵
  • 『公卿補任』第五篇、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。 

編著

  • 『人事興信録:第3版』人事興信所編、人事興信所、1911年。 
  • 『神宮要綱』神宮司庁編、神宮皇学館館友会、1929年。 
  • 平成新修旧華族家系大成:上巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。 
  • 『平成新修旧華族家系大成:下巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。 

著作

  • 山蔭基央『日本の黎明:文化は自ら革新する』白馬出版、1982年。 
  • 千田稔『明治・大正・昭和華族事件録』新人物往来社、2002年。 
  • 刑部芳則『公家たちの幕末維新:ペリー来航から華族誕生まで』中央公論新社〈中公新書2497〉、2018年。ISBN 978-4-12-102497-8 

辞典

  • 阪本是丸「北小路随光」『神道人名辞典』神社新報社編、神社新報社、1986年、117頁。 
  • 阪本是丸「明治神祇官」『神道事典:縮刷版』國學院大學日本文化研究所編、弘文堂、1999年、142-143頁。 

官報

  • 『官報』第230号、1884年4月9日。 
  • 『官報』第308号、1884年7月9日。 
  • 『官報』第2391号、1891年6月20日。 
  • 『官報』第5390号、1901年6月22日。 
  • 『官報』第8281号、1911年2月1日。 
  • 『官報』第8649号、1912年4月22日。 
  • 『官報』第1296号、1916年11月27日。 
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
日野流北小路家初代
1884年 - 1916年
次代
北小路資武

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