豊明節会(とよあかりのせちえ)は、大嘗祭のあとに行われる節会の饗宴。大正以降は、大饗の儀(だいきょうのぎ)として執り行われている[1]。
古来、大嘗祭に続く2日間は、新穀を供した悠紀国、主基国において芸能などを天覧に入れる節会がそれぞれ行われた(事実上の直会)。明けて3日目、皇位継承に関わる諸行事のすべてを締めくくる饗宴として行われた。白酒(しろき)・黒酒(くろき)が振る舞われ、国栖による国栖奏が奉じられ、久米舞、古志舞、五節舞(参考 : 雅楽)等が舞われた。
平安時代では主に豊楽院、後に紫宸殿にて行われた。
大正、昭和時は、即位礼に列席した祝賀使節への饗応を兼ねており、3度に分けて行われた大饗の儀の二日目は、祝賀使節向けに洋式の晩餐が供された。また、全国各地で「地方饗饌」が行われ、地方の名士らが大正度は約8万5千人、昭和度は約22万人が参集した[2]。
平成以降は即位礼と大嘗祭の間が長くなったため、即位礼の直後に「饗宴の儀」が別に行われている。
現在の「大饗の儀」においては、天皇皇后の御座の後に屏風画「錦軟障」が立てられる。これは高さ12尺(3.64メートル)、幅30尺8寸4分(9.35メートル)で、その図は千年松山水の図、大正の大嘗祭に際して今尾景年の筆により絹に揮毫された墨絵である[3]。また、両側上座壁面には「悠紀地方風俗歌屛風」(皇后出入口脇)、「主基地方風俗歌屛風」(天皇出入口脇)が布設され、大嘗祭において悠紀国(京都以東以南)・主基国(京都以西以北)に選ばれた各々の地方の四季の名勝を題材に、屏風は二曲一双で画紙雲肌麻紙に描かれた[3]。更に同じくそれぞれの和歌が宮内庁の依頼を受けた歌人によって詠まれ、万葉仮名で色紙に揮毫され、二枚あてその屏風の左右両上隅に張られた[3]。また、天皇皇后の御前には両地方の風景を取り入れた意匠で立体的な飾りつけをした純銀製の「洲浜台」が置かれた[注釈 1][5]。
悠紀国、主基国において農林水産物15品が県や関連団体の推薦によって選定され、それぞれ献物(けんもつ)として正面に陳列され、式部官長がその色目を奏上した。これは、古来の節会で両国の産品を「多米都物」(ためつもの)として献上、弁官がこれを奏上したことに倣ったものである[6]。
饗宴に際して、歌舞が披露される。
最後に、天皇皇后が挿花を供し、また諸員に賜った[10]。
悠紀主基屏風の作製は平安時代から続く伝統であるが、現存最古の悠紀主基屏風は明和3年(1764年)後桜町天皇の大嘗会のもので、悠紀地方(近江国)を日野資枝、主基地方(丹波国)を烏丸光祖が詠進、作画はいずれも土佐光貞である。
明治度屏風は現存しないが、『明治大嘗祭図』に彩色で詳細な写しが載せられている[12][13][14]。