信州新町(しんしゅうしんまち)は、長野県長野市にある地区である。
元は上水内郡の地方自治体の町であり、2010年1月1日に長野市に編入した後も、「町」を冠したまま、同市の地区名として残っている。単に新町(しんまち)と呼ばれることもあるが、善光寺門前の同市大字長野にも同名の「新町」が存在する。
地理
歴史
沿革
旧町の情報
信州新町(しんしゅうしんまち)は、長野県上水内郡にあった町である。単に新町(しんまち)と呼ばれることもある。
2010年1月1日に長野市に編入されたため廃止された。
行政
地域
教育
交通
路線バス
名所・旧跡・観光
- 久米路峡 − 平安時代に「久米路の橋は心して行け」と歌われ県歌「信濃の国」にも歌われている。何度も架け替えられ、人柱の伝説にもいろどられ「くの字形」に折れ曲がった橋と奇岩、深い水面の景観は古来文人墨客に親しまれ紅葉の名所としても知られて来た。
- かあさんの歌碑 −「かあさんの歌」窪田聡作詞・作曲の歌謡曲。
- 牧之島城跡 − 越後への牽制と更級、水内の山間部の鎮撫を目的に武田信玄の命を受けた馬場信春による1566年の築城と伝えられる。土塁や堀跡などの遺構に甲州流築城術の特徴が良好に保存されている。
- 信州新町青少年旅行村
- 武富佐神社 − 続日本紀に、768年更科郡の建部大垣が「人となり恭順、親に孝あり」との理由で朝廷から褒美を得た記述がある。その住地の記載はないが建部氏は日本武尊の名代部であり古代大和朝廷から各地に配置された職業的軍事集団でもあったとされる。更科郡下で倭健尊を祭神とする古くからの神社は当社と考えられるので建部大垣はこの周辺の住民であったと推定されている。姨捨山の棄老伝説が大和物語によって広く知られるようになるのは大垣の受賞から180年余も経てのことである。この長い間に大垣受賞の噂話が各地に広まる過程で物知りによって棄老を戒める仏教の説話が付け加えられて定着したものと考えられている。また当社は建部大垣の古墳上に建立されているのだとも伝説されていた。しかし近年の発掘調査によれば古墳は現在の社殿の北側にあって、大垣の頃より約150年ほどさかのぼる築造とされるが「親孝行のパワースポット」と念じる地として注目を得ている。
- 梅まつり ‐ 上記武冨佐神社の北側にある瑯鶴湖の岸辺に広がる梅園の花の見ごろと香りを楽しむ祭りが開催される。1995年にふるさと創生事業補助金を活用して始まった。
- 有島生馬記念館 - 有島生馬の鎌倉の家(通称「松の屋敷」)を長野市信州新町上条に移築したもの。1890年にイタリア人貿易商ヴィヴァンティが鎌倉の稲村ヶ崎に建てたコロニアルスタイルの建物で廃屋同然になっていたものを、新渡戸稲造の別荘(現 聖路加看護大学アリスの家)に遊びにきていた生馬が気に入り、1921年に購入、手を入れて妻子とともに暮らした。生馬没後は娘の暁子の勤め先である上智大学が研修保養施設として所有し、暁子が住んでいたが、1980年に建てなおしが決まったため、生馬の疎開先であった信州新町に無償で提供され、琅鶴湖のほとりに建つ。
姉妹都市・友好都市
名産物
脚注
- ^ 「買収町長ら起訴へ 長野・信州新町の選挙」『朝日新聞』昭和48年(1973年)6月13日朝刊、13版、23面
関連項目
外部リンク