中澤 聡太(なかざわ そうた、1982年10月26日 - )は、東京都三鷹市出身の元プロサッカー選手。日本サッカー協会登録仲介人。現役時代のポジションはディフェンダー。(センターバック)。妻はタレントの金田美香。
東京都三鷹市に生まれ、物心つく前に引っ越した埼玉県朝霞市で育つ[3]。中学生時には浦和レッズジュニアユースに加入し、3年時にはユースへの昇格が確実視されていたが[4]、 同年の高円宮杯で浦和ユースが東福岡高校に大敗したことから高校サッカーに臨むことを決め、1998年にトレセンで知り合った西紀寛[4] が在学する市立船橋高校へ進学。2年生時には羽田憲司とセンターバックを組んで高校選手権に出場。6試合無失点の堅守で勝ち上がり、決勝の鹿児島実業戦では永井俊太のコーナーキックに高い打点のヘディングを合わせて決勝点を挙げ、優勝を果たした[5][6]。高校の同期には永井、本橋卓巳、植草裕樹らがいる。3年生時には強化指定選手として柏レイソルに登録された。
2001年、西野朗監督率いる柏レイソルに入団[7]。同年にはU-20日本代表としてFIFAワールドユース選手権では3試合に先発出場した。しかし、クラブでは3度の骨折など[4] 負傷が重なったこともあって試合に出られずにいた[8]。2005年には早野宏史監督の下で出場機会を得るが、翌2006年はJ2に降格したチームの中でも出番が与えられず、シーズン途中の6月に志願してFC東京に期限付き移籍[2][8]。負傷した茂庭照幸に代わってベンチ入りするようになったが[9]、初の先発出場となった第25節新潟戦でPKを献上してしまった[10]。このシーズンは2試合の出場にとどまった。
2007年、西野が監督を務めるガンバ大阪に期限付き移籍[11]。西野からの期待は大きく[1] 2008年には完全移籍で加入し[12]、新加入の水本裕貴やミネイロらを押しのけて自身初めてシーズンを通してのレギュラーの座を掴み、ACLや天皇杯などのタイトル獲得に貢献。ファン選出の同年度MVPを受賞した[13]。
2009年は開幕から新加入のパク・ドンヒョクにポジションを譲るも、第8節FC東京戦以降は再びスターティングメンバーとして起用された。同年6月21日、金田美香との入籍を発表[14]。2010年1月9日、金田の26歳の誕生日に挙式・披露宴を行った[15]。同年10月3日、第一子となる長女が誕生した[16]。同年7月、J1第13節浦和戦でJリーグ100試合出場を記録。12月の天皇杯準々決勝・浦和戦では相手チームの選手と接触し負傷。「左精巣損傷」と診断された。2011年はDFながら5得点を挙げるが、守備面では安定感を欠いた[要出典]。2012年は7月に左腓骨遠位端骨折により4か月の戦線離脱を余儀なくされ、リーグ戦出場は18試合に留まり、クラブもJ2降格を喫した。
2013年、川崎フロンターレへ完全移籍[17]。怪我の完治が遅れ、戦術に適応しきれないまま開幕を迎えた[4]。シーズン半ばにかけて徐々に復調したが[4]、8月以降はDFジェシの復帰によって[要出典]先発から外れた[18]。 2015年1月7日にセレッソ大阪へ期限付き移籍することが発表された[19]。同年12月23日にセレッソへ完全移籍する事が発表された[20]。2016年シーズンをもち、契約満了のため退団[21][22]、この年限りで現役を退いた[23]。
2017年より、古巣ガンバ大阪の強化スタッフ(スカウト担当)に就任した[23][24]。2018年12月28日をもってガンバ大阪を退社した[25]。
2019年からジャパン・スポーツ・プロモーション所属の代理人として活動している。
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