一橋大学大学院法学研究科 (ひとつばしだいがくだいがくいんほうがくけんきゅうか、英称:Hitotsubashi University Graduate School of Law)は、一橋大学 に設置される大学院 研究科 の一つである。また、一橋大学法学部 (ひとつばしだいがくほうがくぶ、英称:Hitotsubashi University Faculty of Law)は、一橋大学に設置される学部 の一つである。法学研究科と法学部は一体となって運営されているため、この記事で合わせて解説する。
概要
一橋大学大学院法学研究科・法学部は、一橋大学 に設置される大学院研究科及び学部である。1949年に官立 旧制東京商科大学 が改組されて法学社会学部法学科として設立され、1951年に法学社会学部が法学部と社会学部 に分離した[ 1] 。
主に法学 及び国際関係論 の研究教育を行っており、法学研究科には法学・国際関係専攻及び法務専攻(法科大学院 )及びビジネスロー専攻の3専攻が、法学部には、法律学科の中に法学コース及び国際関係コース、法曹 コースの3コースが、それぞれ設置されている。部門としては、法学や国際関係を扱う基礎法、公法 、国際法 、民事法 、企業法経済法 、刑事法 及び、語学 担当の法言語論、グローバル・ネットワーク論の8部門体制となっている[ 2] [ 3] [ 4] [ 5] 。博士後期課程には研究者養成コースと応用研究コースの2コースが設置されている[ 6] [ 7] 。また、2年間の修士課程を修めることで、一橋大学と、中国人民大学 法学院又は国立台湾大学 法律学院の、2つの修士号 が取得できる、ダブルディグリー・プログラムも行われている[ 8] 。
また、社会科学 の総合大学 を理念とする東京商科大学以来の伝統として学部間の壁は薄く、法学部では他学部の科目を原則自由に履修できる他、経済学部 の単位を一定数取得する経済学 副専攻プログラムも設置されている。法科大学院では、3年次に一ツ橋 の千代田キャンパスのビジネススクール で実践的な教育が行われるビジネス・ロー・コースが設置されている[ 2] [ 9] [ 10] 。
少人数教育を重視しており、定員は法学部が1学年165人[ 11] 、法科大学院は1学年85人となっている。学部学生 は必修のゼミナール で後期2年間同一教員の指導の下、学士 論文の執筆を行う[ 12] [ 11] [ 13] 。一橋大学法学部と一橋大学法科大学院の一貫型教育選抜により、法学部を3年で卒業し、標準修業年限2年の法科大学院既修者コースに入学することや、法科大学院の入学試験で法律科目の論述式試験の免除を受けることができる[ 7] 。また、学士・修士一貫教育 により、学部入学から5年間で大学院まで修了できる5年一貫プログラムも設置されている[ 14] 。
沿革
略歴
1949年の学制改革 で旧制東京商科大学 が改組されて、新制一橋大学が設立され、法学社会学部法学科が置かれた。1951年に法学社会学部が法学部と社会学部 に分離し、一橋大学法学部が成立。1953年には大学院法学研究科が設立された[ 1] 。
法学教育は前身の東京高等商業学校時代から既になされており、商法 の志田鉀太郎 や民法 の乾政彦 などが教鞭を執っていた。旧制東京商科大学時代には、民法の岩田新 や商法の本間喜一 は、白票事件 で辞職したが、商法の田中誠二 、国際法 の中村進午 、憲法 の田上穣治 などは専任の教授として定年まで教鞭を執った。また、経済史 三浦新七 門下の町田實秀 が西洋法制史 を担当した[ 15] [ 16] [ 17] [ 18] 。
第二次世界大戦 後、商法の米谷隆三 は教職追放令で解職されたが、その後1955年に日本学士院賞 を受賞している[ 19] 。
1949年に、旧制東京商科大学が新制一橋大学に改組されると、1951年には法学部も設置され、法学研究教育が本格化した。初代刑法講座教授に植松正 が、初代刑事訴訟法 講座教授に鴨良弼 が、外国法講座教授に田中和夫 が、商法担当教授に吉永榮助 が、国際私法 担当教授に久保岩太郎 が、それぞれ就任するなど、体制の拡充がなされ、また、民法から転向した吾妻光俊 により、労働法 が講じられた[ 15] [ 20] 。
1962年、田上門下の市原昌三郎 が初の行政法 担当専任の教授に、吾妻門下の蓼沼謙一 が労働法担当の専任教授に、それぞれ就任。1963年、米谷門下で商法の喜多了祐 が教授に就任。1966年、英米法 の堀部政男 が着任。1967年、国際法の皆川洸 が教授に就任。1969年に刑法講座第2代教授に福田平 が就任[ 16] [ 21] [ 20] 。
国際関係の研究も戦後始まり、岩田門下で国際法を講じた大平善梧 により採用された細谷千博 が、1964年に国際関係論 講座を、1977年に外交 史講座を、それぞれ開いて、国際関係論講座に山本満 を、外交史講座に有賀貞 を招聘するなどした[ 22] [ 18] 。
1970年代前半には、長年専任教授が田中ゼミ出身の好美清光 1人だった民法の担当教授として川井健 及び島津一郎 の2名が招聘され、民事訴訟法 の竹下守夫 及び法哲学 の上原行雄 も着任した。1970年、田中門下で商法の堀口亘 が教授に就任。1972年には田上門下の杉原泰雄 が第3代憲法学講座教授に、久保門下の秌場準一 が国際私法担当の教授に、それぞれ就任した。1973年には植松門下の村井敏邦 が専任講師として着任し、定年退官した鴨の後任として刑事訴訟法を担当した。1975年、町田門下で西洋法制史の勝田有恒 が教授に就任。1976年、吉永門下で商法の久保欣哉 が教授に就任[ 15] [ 23] 。
1984年、喜多門下の石原全 が商法の教授に、南博方 が市原の後任として行政法の教授に、植松門下の福田雅章 が刑事政策 の教授に就任。1986年、堀口門下の川村正幸 が商法の教授に、国際関係論の野林健 が教授に就任。1987年、杉原門下の浦田一郎 が憲法の教授に就任[ 24] 。
1990年、民事訴訟法の上原敏夫 及び、国際私法の横山潤 、西洋法制史の山内進 、外交史の石井修 が教授に就任。1991年、民法の松本恒雄 及び労働法の盛誠吾 が教授に就任。1992年、行政法の原田尚彦 が教授に就任。1994年、憲法の山内敏弘 及び国際関係論の大芝亮 が教授に就任。1995年、民法の中田裕康 及び国際法の佐藤哲夫 が教授に就任。1996年、法哲学の森村進 が教授に就任。1997年、初の租税法 専任の担当教授に水野忠恒 が就任。同年、商法の野田博 が教授に就任。1998年、外交史の田中孝彦 が教授に就任。
1998年にビジネススクール の国際企業戦略研究科 経営法務専攻(2018年に法学研究科に統合)が新たに設立されると、のち法学研究科から商法の川村正幸 が移籍するとともに、知的財産法 の土肥一史 や相澤英孝 、経済法 の村上政博 や上杉秋則 、民事訴訟法の小林秀之 、労働法の中窪裕也 、弁護士 の岩倉正和 などが招聘された。また、杉原の発案で新たに中国法 が扱われるようになり、1999年には専任の教授として西村幸次郎 が招聘された。同年、国際関係論の納家政嗣 、行政法の高橋滋 、民法の滝沢昌彦 、刑法の橋本正博 、刑事訴訟法の後藤昭 が、それぞれ教授に就任[ 15] 。
2000年代に入ると、中国 出身で比較刑事法 が専門の王雲海 や[ 25] [ 26] [ 27] 、オーストラリア 出身で比較メディア 法が専門のジョン・ミドルトン が教授に就いた[ 28] [ 29] 。2001年、民事訴訟法の山本和彦 及び憲法の阪口正二郎 が教授に就任。2002年、比較法文化論の青木人志 が教授に就任。2004年に法科大学院 を開設。2005年に法学研究科と経済学研究科 の共同で国際・公共政策大学院 が開設されると、これまで法学研究科で扱ってこなかった政治学 が専門の辻琢也 や、国際連合事務局 の中満泉 が、教授として招聘された[ 30] [ 1] [ 2] 。同年、従来の西洋法制史に加え、新たに日本法制史 の専任として水林彪 を教授に招聘。また、憲法の只野雅人 が教授に就任。2009年、刑事法の葛野尋之 が教授に就任。2010年、西洋法制史の屋敷二郎 が教授に就任。2012年国際関係の秋山信将 が教授に就任[ 31] [ 2] 。
年表
1949年 - 一橋大学に法学社会学部法学科が設置される[ 1] 。
1951年 - 法学社会学部が法学部と社会学部 に分かれる[ 1] 。
1953年 - 大学院法学研究科修士課程 及び博士課程 を設置[ 1] 。
1999年 - 大学院重点化 し、法学部第一課程(公法)・第二課程(私法)・第三課程(国際関係)が法律学科 に改組される[ 1] 。
2002年 - 附属総合法政策実務提携センター設立[ 1] 。
2004年 - 法務専攻(法科大学院 )開設[ 1] 。
2005年 - 経済学研究科 と共同で国際・公共政策大学院 を開設[ 2] 。
2007年 - 総合法政策実務提携センターを、日本法国際研究教育センターに改組[ 1] 。
2013年 - 日本法国際研究教育センターを、日本ヨーロッパ法政研究教育センターに改組[ 1] 。
2016年 - 日本ヨーロッパ法政研究教育センターを、グローバル・ロー研究センターに改組[ 1] 。
2018年 - 国際企業戦略研究科 経営法務専攻を統合し法学研究科ビジネスロー専攻に改組[ 32] 。
2020年 - 法学部に法曹コースを開設[ 7] 。
組織
教員・出身者
司法試験合格率
一橋大学法科大学院は、司法試験合格率81.50%、全法科大学院中、第1位(平成17年-平成29年)[ 34] 。
令和4年度司法試験では、合格率60.0%、全法科大学院中、第3位となった[ 35] [ 36] 。
関連項目
脚注
^ a b c d e f g h i j k l 「沿革」 一橋大学
^ a b c d e 「一橋大学大学院法学研究科外部評価書2011[PDF形式 」]一橋大学
^ 「教員紹介」 一橋法学大学院法学研究科・法学部
^ 「法学研究科大学院について」 一橋法学大学院法学研究科・法学部
^ 「法学部」 一橋大学
^ 一橋大学大学院法学研究科規則
^ a b c 「法曹コース」 一橋大学
^ 中国人民大学法学院・国立台湾大学法律学院修士ダブルディグリー・プログラム 一橋大学
^ 「法学副専攻プログラム・経済学副専攻プログラム」 一橋大学
^ 平子友長 「新制大学と社会学部創立の経緯 : 2つの「社会科学の総合大学化」構想 」一橋大学ホーム・カミング・デイ講演会,国立,2006年6月3日,一橋大学、2006年、hdl :10086/45834 。
^ a b 「入学者数等」 一橋大学
^ 「学部」 一橋大学
^ 「平成 28(2016)年度一橋大学法科大学院学生募集について 」 一橋大学法科大学院
^ 5年一貫教育プログラムについて 一橋大学
^ a b c d 好美清光「一橋における民法学 」『一橋論叢』第91巻第4号、日本評論社、1984年、523-539頁、doi :10.15057/11342 、hdl :10086/11342 、ISSN 0018-2818 。
^ a b 市原昌三郎 「一橋と公法学 : 憲法学・行政法学 」『一橋論叢』第93巻第4号、日本評論社、1985年、473-485頁、doi :10.15057/12904 、hdl :10086/12904 、ISSN 0018-2818 。
^ 増田四郎 「一橋歴史学の流れ」 如水会
^ a b 皆川洸 「大平善梧先生 : 人と学説 」『一橋論叢』第63巻第2号、日本評論社、1970年、137-153頁、doi :10.15057/2406 、hdl :10086/2406 、ISSN 0018-2818 。
^ 喜多了祐 『商法・経済法(1) : 一橋法学の形成と米谷博士の企業法論 』一橋大学、1986年、673-692頁。doi :10.15057/da.5930 。hdl :10086/45930 。https://doi.org/10.15057/da.5930 。
^ a b 福田平, 村井敏邦 『刑法 』一橋大学、1986年、769-779頁。doi :10.15057/da.5890 。hdl :10086/45890 。https://doi.org/10.15057/da.5890 。
^ 蓼沼謙一「一橋における労働法学 」『一橋論叢』第93巻第4号、日本評論社、1985年、486-505頁、doi :10.15057/12903 、hdl :10086/12903 、ISSN 0018-2818 。
^ 有賀貞 「一橋における外交史・国際関係論 」『一橋論叢』第89巻第4号、日本評論社、1983年、579-591頁、doi :10.15057/12955 、hdl :10086/12955 、ISSN 0018-2818 。
^ 「私の憲法科学と憲理研」 憲理研
^ 高橋滋 「南博方先生の人と業績 」『一橋論叢』第110巻第1号、日本評論社、1993年、14-24頁、doi :10.15057/10932 、hdl :10086/10932 、ISSN 0018-2818 。
^ 「王 云海(オウ ウンカイ)」 一橋大学
^ 「著者紹介」 日本評論社
^ 「王 雲海」 一橋大学
^ 「MIDDLETON John(ミドルトン ジョン)」 一橋大学
^ 「グローバル時代における日本の英米法教育- 一橋大学の試み -」 BIZLAW
^ 「辻 琢也(ツジ タクヤ)」 一橋大学
^ 「水林 彪」 一橋大学大学院法学研究科
^ 「重要なお知らせ」 一橋大学国際企業戦略研究科経営法務専攻
^ 法学部法律学科法曹コース(2020年4月新設)に伴い法学部・法科大学院一貫型教育選抜制度設立[1] 一橋大学HQウェブマガジン「一橋大学法学部に『法曹コース』開設」2020年6月29日 掲載
^ 法科大学院別司法試験累計合格者数等(累計合格率順)|文部科学省
^ 2022年 法科大学院別 司法試験合格者率ランキング(スタディング司法試験・予備試験講座)
^ 令和4年司法試験法科大学院等別合格者数等(法務省)
外部リンク
学部 大学院 附置施設 歴史 前身校 旧設機関 関連項目
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