カプチン・フランシスコ修道会 Ordo Fratrum Minorum Capuccinorum
カプチン会の会章
略称
OFM Cap. 設立
1525年 (フランシスコ会 より分派) 設立者
マテオ・ダ・バッシ 種類
カトリック教会の修道会 目的
教会活動、宣教 重要人物
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ローマ のサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会 の納骨堂 を飾る4,000人のカプチン会修道士 の遺体
カプチン・フランシスコ修道会 (ラテン語 :Ordo Fratrum Minorum Capuccinorum , 略称: OFM Cap. )はカトリック教会 の修道会 の1つ。カプチン・フランシスコ会 、カプチン小さき兄弟の会 あるいはカプチン会 とも呼ばれる。
歴史
16世紀 はヨーロッパ に宗教改革 の嵐が吹き荒れた世紀であったが、カトリック教会 の教会刷新運動もさかんに行われた(対抗宗教改革 )[ 注釈 1] 。フランシスコ会 に属したイタリア人 司祭 のマテオ・ダ・バッシ (英語版 ) (マテオ・バスキ)が、1525年 、イタリアのサン・ポーロ・デンツ に所在するモンテファルコーネ修道院において、アッシジの聖フランチェスコ を範とし、原点に立ち戻った厳格な清貧主義の徹底を主張し、フランシスコ会 (「オブセルヴァンティス小さき兄弟会」)から分派した[ 1] [ 注釈 2] 。これが、カプチン・フランシスコ修道会である。カプチン会は、1528年 、ローマ教皇教皇クレメンス7世 の認可を受け、正式に成立した。1538年 には南イタリアのナポリ でクララ会から分派した女子カプチン会も創設され、その動きはフランス やスペイン などへ広がった。
「カプチン会」の名は修道服の頭巾 (カプッチョ, イタリア語 : cappuccio )に由来する。その印象的な頭巾から人々が呼んだものが正式な名称となった。なお、この「カプチン」は 「オマキザル属 」(英語 : capuchin )や「カプチーノ 」(イタリア語 : cappuccino )、和名「僧帽筋 」などの語源 ともなっている。
1536年 、教皇教皇パウルス3世 はカプチン会の活動をイタリア国内に限定したが、1574年 、教皇グレゴリウス13世 はパウルス3世の禁止令を解除し、活動は世界各地に拡大した。当初は「コンベンツァル小さき兄弟会 」の庇護下にあったが、1619年 に独立の修道会として認可された[ 1] 。日本 では1947年 に宣教 を開始した。
なお、カプチン会特有の遺体 埋葬方法としてミイラ 保存がある[ 注釈 3] 。
日本での活動
日本におけるカプチン会は、沖縄県 那覇市 を中心とするカトリック那覇教区 で1947年 より、北関東 4県を担当するカトリックさいたま教区 においては2000年 より、カトリック福岡教区高宮教会で2011年より活動している。現在の日本の責任者である地区長はアメリカ人 のウエイン・F・バーント師である[ 2] 。
沖縄は、第二次世界大戦 後にアメリカのカプチン・フランシスコ修道会ニューヨーク管区管轄の琉球使徒座代理区 となり、1949年 から1972年 までフェリックス・レイ師(カプチン会)が代牧を務めた。1972年に琉球代牧区が那覇司教区に昇格し、1973年 から1997年 までペトロ・バプティスタ石神忠真郎師(カプチン会)が初代司教 の任についた。2007年 現在の那覇司教はコンベンツァル会 出身であるが、カトリック那覇司教区には小禄カトリック教会、聖クララ与那原カトリック教会、普天間カトリック教会の3ヶ所に、カプチン会の主任司祭がいる。このうち、聖クララ与那原カトリック教会(聖クララ教会)については、DOCOMOMO Japan が日本を代表する近代建築 の一つとしてDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築 に選定している[ 3] 。
カトリックさいたま教区にはカトリック小山教会、カトリック峰教会、の2カ所にカプチン会の主任司祭がいる。
他には、横浜市 に事務所を置き、集会活動やテレフォンサービス 、書籍出版などを行う宣教団体「祈りの園」の主催をするアメリカ人のピーター・ボン・エッセン師(ペトロ神父)が有名である。
大学・研究所
ローマ にあるサン・ロレンツォ・ダ・ブリンディジ国際カレッジはカプチン会系の教育研究機関で、歴史研究所や図書館 、博物館 などがある。
カプチン会出身の人物
スペイン のバスク地方 の民謡 研究家で作曲家 でもあったドノスティア神父(ホセ・アントニオ・ドノスティア 、別名サン・セバスティアン)はカプチン会の修道士であった。
脚注
注釈
参照
出典
関連項目
外部リンク
フランシスコ会士 修道院 教会・伝道施設 関連項目 派出・系列修道会