ルイス・スアレス・ミラモンテス(Luis Suárez Miramontes, 1935年5月2日 - 2023年7月9日)は、スペイン・ア・コルーニャ出身の元サッカー選手、元サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。選手時代はスペイン代表であり、監督としてもスペイン代表を指揮した。
1960年にはスペイン出身選手として初めてバロンドールに選出された。スペイン史上最高の選手のひとりとみなされており、エレガントで優雅なプレースタイルが特筆される[2][3]。
経歴
選手時代
クラブ
ガリシア地方のア・コルーニャに生まれ、1949年、14歳の時にデポルティーボ・ラ・コルーニャの下部組織であるファブリルSD(Bチームに相当する)に入団した[4]。1953年12月6日、FCバルセロナ戦でトップチームデビュー。デポルティーボではパイーニョやアルセニオ・イグレシアスとともにプレーし、1953-54シーズンには17試合に出場して3得点を挙げた。
1954年夏にバルセロナに移籍したが、1954-55シーズンはセグンダ・ディビシオン(2部)のCDエスパーニャ・インドゥストリアルにレンタル移籍した。1955年にバルセロナに復帰するとレギュラーに定着し、ラディスラオ・クバラ、チボル・ゾルターン、シャーンドル・コチシュ、アントニ・ラマレッツ、エヴァリストなどとともにプレーした。エレニオ・エレーラ監督が指揮し、1958-59シーズンにはプリメーラ・ディビシオン(1部)とコパ・ヘネラリシモ(現在のコパ・デル・レイ)のダブル(2冠)を達成。1958年のバロンドール投票では初めてノミネートされ、1959年の投票では4位の22ポイントを獲得した。1959-60シーズンにはリーグ戦とインターシティーズ・フェアーズカップのダブルを達成し、1960年のバロンドール投票では54ポイントを獲得して同賞を受賞した。1960-61シーズンのUEFAチャンピオンズカップ予選でリールセSK(ベルギー)を、1回戦で同大会5連覇中のレアル・マドリード(スペイン)[5]を、準々決勝でスパルタク・フラデツ・クラーロヴェー(チェコスロバキア)を、準決勝でハンブルガーSV(西ドイツ)を破って決勝に進出したが、エウゼビオを擁するSLベンフィカに2-3で敗れた。スアレスはストライカーではなくプレーメーカーだったが、バルセロナではちょうど2試合に1点の割合(122試合61得点)でゴールを決めた。
1961年、当時の史上最高額となる2億5000万リラ(14万2000ポンド)の移籍金でセリエAのインテルに移籍した[2][4]。前年にはバルセロナ時代の恩師であるエレーラ監督がインテル監督に就任しており、再び彼の下で中心選手として活躍した。1960年代のインテルはグランデ・インテルと呼ばれる黄金期であり、セリエAで3回、UEFAチャンピオンズカップで2回、インターコンチネンタルカップで2回優勝した[6]。1961年のバロンドール投票では4位、1963年の投票では8位、1964年の投票では2位、1965年の投票では3位と、安定して高いレベルの活躍を見せ、インテルでは1970年までに328試合に出場して55得点を挙げた。
1970年にはUCサンプドリアに移籍。1972年に現役引退した。
スペイン代表
1957年1月30日、オランダ代表戦(6-1)でスペイン代表デビューした。スペイン代表は1958 FIFAワールドカップは予選で敗退し、本大会に出場していない。1960 欧州ネイションズカップ(UEFA欧州選手権の前身)予選1回戦ではポーランドに勝利したが、2回戦(準々決勝、勝てば本大会出場)ではソビエト連邦との対戦を拒否して不戦敗となった。1962年にはチリで開催された1962 FIFAワールドカップに出場したが、ブラジル代表、チェコスロバキア代表、メキシコ代表と同居したグループの最下位でグループリーグ敗退に終わった。なお、同大会ではブラジルが優勝し、チェコスロバキアが準優勝している。
1964年にはジョゼップ・マリア・フステ、アマンシオ・アマロ、ホセ・アンヘル・イリバル、ヘスス・マリア・ペレーダなどとともに、地元スペインで開催された1964 欧州ネイションズカップに出場。本大会はスペイン、デンマーク、ハンガリー、ソビエト連邦の4ヶ国が出場し、トーナメント戦でいきなり準決勝から行なわれた。ハンガリー戦ではペレーダの先制点をアシストし、延長戦でアマンシオ・アマロが決勝点を挙げた[2]。決勝は前回大会王者のソビエト連邦との対戦となった。再びスアレスのクロスからペレーダが先制点を決め、マルセリーノ・マルティネスの決勝点もスアレスのペレーダへのパスが起点となった[2]。スペインの初優勝に大きく貢献し、自身は大会のベストイレブンに選出された。
1966年にはイングランドで開催された1966 FIFAワールドカップに出場し、フランツ・ベッケンバウアーを擁する西ドイツ代表、アルゼンチン代表、スイス代表と同組となったが、2大会連続でグループリーグ敗退に終わった。スペイン代表はUEFA欧州選手権1968と1970 FIFAワールドカップは予選で敗退し、本大会に出場していない。スペイン代表としては1972年までに32試合に出場して14得点を挙げた。
指導者時代
現役引退後は指導者となった。ジェノアCFCのユースチームを指揮した後[7]、1975年に初めて古巣インテルの監督に就任し、インテルでは計3度(最初以外は暫定監督)に渡って采配を振るった。1980年から1982年にはU-21スペイン代表監督を務め、1988年にはミゲル・ムニョス監督の後任としてスペイン代表監督に就任。27試合を指揮し、イタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは2次リーグまで勝ち進んだ。
指導者を退いてからはインテルのスカウトなどを務めた[2]。
晩年
2023年7月9日にミラノで88歳で亡くなった[8]。
タイトル
クラブ
- プリメーラ・ディビシオン優勝 (2) : 1958-59, 1959-60
- コパ・デル・レイ優勝 (2) : 1956-57, 1958-59
- インターシティーズ・フェアーズカップ優勝 (2) : 1957-58, 1959-60
- セリエA優勝 (3) : 1962-63, 1964-65, 1965-66
- UEFAチャンピオンズカップ優勝 (2) : 1963-64, 1964-65
- インターコンチネンタルカップ優勝 (2) : 1964, 1965
代表
- UEFA欧州選手権優勝 (1) : 1964
個人
個人成績
クラブ
|
国内リーグ
|
国内カップ
|
欧州カップ
|
通算
|
シーズン |
クラブ |
ディビジョン
|
出場 |
得点
|
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点
|
スペイン
|
国内リーグ
|
国内カップ
|
欧州カップ
|
通算
|
1953–54 |
デポルティーボ |
プリメーラ |
17 |
3 |
- |
- |
17 |
3
|
1953–54 |
バルセロナ |
プリメーラ |
0 |
0 |
7 |
0 |
- |
7 |
0
|
1954–55 |
エスパーニャ・インドゥストリアル |
セグンダ |
|
|
|
|
|
|
|
|
1954–55 |
バルセロナ |
プリメーラ |
6 |
3 |
1 |
1 |
- |
7 |
4
|
1955–56 |
17 |
6 |
2 |
0 |
0 |
0 |
19 |
6
|
1956–57 |
21 |
13 |
2 |
0 |
0 |
0 |
21 |
13
|
1957–58 |
12 |
2 |
6 |
5 |
2 |
2 |
20 |
9
|
1958–59 |
26 |
14 |
9 |
6 |
2 |
0 |
37 |
20
|
1959–60 |
23 |
13 |
2 |
0 |
10 |
1 |
35 |
14
|
1960–61 |
17 |
10 |
0 |
0 |
11 |
5 |
28 |
15
|
イタリア
|
国内リーグ
|
国内カップ
|
欧州カップ
|
通算
|
1961–62 |
インテル |
セリエA |
27 |
11 |
- |
5 |
4 |
32 |
15
|
1962–63 |
29 |
8 |
1 |
0 |
- |
30 |
8
|
1963–64 |
27 |
3 |
- |
9 |
1 |
36 |
4
|
1964–65 |
29 |
8 |
3 |
1 |
9 |
2 |
41 |
11
|
1965–66 |
27 |
5 |
2 |
0 |
7 |
0 |
36 |
5
|
1966–67 |
32 |
3 |
2 |
1 |
9 |
1 |
43 |
5
|
1967–68 |
29 |
2 |
9 |
1 |
- |
38 |
3
|
1968–69 |
29 |
1 |
- |
- |
29 |
1
|
1969–70 |
28 |
1 |
5 |
1 |
10 |
1 |
43 |
3
|
1970–71 |
UCサンプドリア |
セリエA |
28 |
5 |
3 |
2 |
- |
31 |
7
|
1971–72 |
27 |
4 |
4 |
1 |
- |
31 |
5
|
1972–73 |
8 |
0 |
3 |
1 |
- |
11 |
1
|
通算
|
スペイン
|
139 |
64 |
|
|
|
|
|
|
イタリア
|
320 |
51 |
|
|
|
|
|
|
通算
|
|
|
|
|
|
|
|
|
代表での出場記録
[9]
スペイン代表
|
年 |
出場 |
得点
|
1957 |
6 |
4
|
1958 |
3 |
2
|
1959 |
5 |
5
|
1960 |
7 |
3
|
1961 |
1 |
0
|
1962 |
2 |
0
|
1963 |
1 |
0
|
1964 |
2 |
0
|
1965 |
2 |
0
|
1966 |
2 |
0
|
1967 |
0 |
0
|
1968 |
0 |
0
|
1969 |
0 |
0
|
1970 |
0 |
0
|
1971 |
0 |
0
|
1972 |
1 |
0
|
通算 |
32 |
14
|
代表での得点
脚注
関連項目
外部リンク