フェニックス (USS Phoenix, CL-46 ) は、アメリカ海軍 のブルックリン級軽巡洋艦 5番艦。艦名はアリゾナ州 フェニックス に因む。
概要
フェニックス (USS Phoenix, CL-46 ) は1938年10月に竣工した。太平洋戦争 開戦時は真珠湾 にいたが、真珠湾攻撃 での被害はなかった。
1942年(昭和17年)初頭より東南アジア方面やインド洋に進出し、船団護衛任務に従事した。
1943年(昭和18年)になると第7艦隊 に編入され、上陸部隊護衛や対地砲撃に従事する。1944年(昭和19年)6月中旬、ビアク島攻防戦 にともなう渾作戦 で日本軍駆逐艦5隻[注釈 1] と夜戦 を繰り広げた。
10月下旬以降のフィリピン攻防戦 では、第77任務部隊としてレイテ沖海戦 スリガオ海峡夜戦 に参加し、西村艦隊を迎撃した[注釈 2] 。その後、幾度か神風特別攻撃隊 と交戦した。
太平洋戦争 終結後の1951年(昭和26年)4月にアルゼンチン に売却され、最終的にヘネラル・ベルグラノ (ARA General Belgrano, C-4 ) と改名された。長らくアルゼンチン海軍 で運用されていたが、1982年 (昭和57年)5月2日、フォークランド紛争 で原子力潜水艦コンカラー (HMS Conqueror, S48 ) の魚雷攻撃を受けて沈没した。
艦歴
第二次世界大戦以前
フェニックスはニュージャージー州 カムデン のニューヨーク造船所 で1935年4月15日 に起工する[12] 。1938年(昭和13年)3月13日 にドロテア・キース・ムーナン夫人の手によって進水した。同年10月3日にフィラデルフィア海軍造船所 でジョン・W・ランキン (英語版 ) 大佐 の指揮下で就役した。就役後、フェニックスは慣熟航海でトリニダード・トバゴ のポートオブスペイン まで航海。その後、サントス 、ブエノスアイレス 、モンテビデオ およびサンフアン を親善訪問。フィラデルフィア には1939年(昭和14年)1月に戻った。その後、フェニックスは太平洋 方面に移動した。
第二次世界大戦
真珠湾攻撃 - 1942年前半
真珠湾攻撃で破壊された戦艦 アリゾナ およびウェストバージニア の横を通過するフェニックス
1941年12月7日 (日本時間12月8日 )、フェニックスは真珠湾 内フォード島 の北東側に、病院船 ソレース (英語版 ) (USS Solace, AH-5 ) の近くに停泊していた。フェニックスの見張りは、フォード島上空を飛ぶ不審な飛行機、日本機を発見する。間もなく日本機の攻撃 が始まり、フェニックスは作動できる銃砲でこれに反撃した。日本側は第二航空戦隊 (司令官山口多聞 少将)空母蒼龍 の九九式艦上爆撃機 がフェニックス(目標「リ」)を攻撃し、250kg爆弾2発が命中して中破したと判定している。だがフェニックスは健在であった。午前9時40分、軽巡洋艦セントルイス (USS St. Louis, CL-49 ) が出港し、外洋に出ていった[注釈 3] 。午前10時10分、フェニックスは港外に出る為に動き出したが、命令によりいったん真珠湾に引き返す。午前11時すぎ、ふたたび出港することになり、炎上する戦艦列 の傍を通過して湾外にむかった。
その日の午後、軽巡2隻(セントルイス、フェニックス)は軽巡デトロイト (USS Detroit, CL-8 ) および数隻の駆逐艦 、たまたまハワイ近海で訓練中だった重巡洋艦ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36 ) と共に臨時の任務部隊 を編成し、南雲機動部隊 の索敵に出撃した[注釈 4] 。するとハルゼー 提督の空母エンタープライズ 偵察機(SBDドーントレス )がオアフ島 南西で「敵艦隊」を発見し、ただちに攻撃隊が発進した。フェニックス以下の任務部隊 を日本艦隊と誤認したのである。フォード島にむかったエンタープライズのF4Fワイルドキャット 6機のうち、4機は味方の対空砲火で撃墜された。
真珠湾攻撃の後、フェニックスは本国行きの輸送船団を護衛し、別の輸送船団を護衛して真珠湾に戻ってくる任務を約1ヵ月行った。任務終了後、フェニックスはサンフランシスコ からメルボルン 行きの輸送船団を護衛する。航海の途中、船団の行き先は日本軍が進撃してくることが想定されたジャワ島 方面に変更となった。
1942年(昭和19年)2月中旬、フェニックスはジャワ島にカーチス P-40 戦闘機 を緊急輸送する水上機母艦 ラングレー (USS Langley, AV-3 ) とイギリス輸送船シーウィッチ (英語版 ) (HMS Seawitch ) を含むMS-5船団の護衛を行った。船団自体はオーストラリア のフリーマントル を2月22日 に出港し、セイロン島 に向かっていた。フェニックスは2月28日にイギリス軽巡洋艦エンタープライズ (HMS Enterprise, D52 ) と船団護衛の任務を交代して、ラングレーとシーウィッチの護衛にあたる予定となっていた[23] 。ところが、日本軍のジャワ島上陸 が時間の問題となってきたので、ラングレーとシーウィッチは即座に船団から分離して全速力でジャワ島へ向かうよう命令され、船団を離脱した。2月27日 、ラングレーは駆逐艦ホイップル (英語版 ) (USS Whipple,DD- 217 ) およびエドサル (USS Edsall, DD-219 ) と共にジャワ島にむけ航行中、チラチャップ (英語版 、インドネシア語版 ) 沖合で一式陸上攻撃機 (高雄海軍航空隊 )の爆撃を受けて損傷し、随伴艦に雷撃処分された。シーウィッチは低速ゆえラングレーから引き離されており、攻撃を免れた。攻撃を受けなかったフェニックスはしばらくの間、日本軍の脅威に備えてインド洋 で哨戒し、ムンバイ 行きの輸送船団の護衛に従事した(セイロン沖海戦 )。
1942年後半 - 1944年
艦長がジョゼフ・R・レッドマン大佐に代わったフェニックスは、1942年の後半を第44任務部隊 (英語版 ) の一艦として過ごした。フェニックスは駆逐艦ヘルム (英語版 ) (USS Helm, DD-388 ) 、マグフォード (英語版 ) (USS Mugford, DD-389 ) およびパターソン (英語版 ) (USS Patterson, DD-392 ) とともにリリプット作戦 (英語版 ) に参加し、豪州海軍 の軽巡洋艦ホバート (HMAS Hobart ) および付属の駆逐艦と交替でニューギニア島 南方海域での船団護衛を行った。作戦終了後、フェニックスはブリスベン を経て1943年7月にフィラデルフィア海軍造船所に到着し、オーバーホール に入った。オーバーホール後、フェニックスはコーデル・ハル 国務長官 をカサブランカ まで乗せた。つづいてダグラス・マッカーサー 大将 の指揮下で行動する第7艦隊 (トーマス・C・キンケイド 中将)に配備された。連合軍は、とりあえずニューブリテン島 ラバウル を攻略するか孤立させる方向で進撃した。
12月26日、フェニックスは姉妹艦ナッシュビル (USS Nashville, CL-43 ) とともにニューブリテン島 西端のグロスター岬 にある日本軍施設を4時間にわたって攻撃した。このあと連合軍がグロスター岬上陸に上陸した(グロスター岬の戦い )。ダンピア海峡 を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はパプアニューギニア 経由でフィリピン を目指した。
艦上のマッカーサー大将とキンケイド中将1944年2月28日
1944年1月25日から26日の夜にはパプアニューギニアのマダン とアレクシスハーフェンの日本軍に対して夜間攻撃を行った。続いてフェニックスは、2月29日からのアドミラルティ諸島の戦い に参加し、ロスネグロス島 に上陸して威力偵察を行う第1騎兵師団 を支援を行ったが、第1騎兵師団は島で抵抗に遭わなかったのでそのまま占領した。一連の戦いの最中、フェニックスはキンケイド提督の旗艦であった。南西太平洋方面総司令官マッカーサー大将は「作戦がきわどい性質のもので、情勢により即座に決断を下す必要」を感じたので、フェニックスに乗艦して戦いを観戦していた。
ラバウルを孤立させた連合軍は、パプアニューギニアの北海岸を西進した。3月4日と3月7日、フェニックスはナッシュビルおよび豪州海軍の重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire ) とともにアドミラルティ諸島 内のハウエイ島に対して艦砲射撃 を行った。この島にある日本軍の大砲は、マヌス島 に対する大きな脅威になると考えられていた。3隻が攻撃を始めた時には日本軍の反撃は激しかったものの、3隻からの砲弾が次第に命中するに及んで反撃は沈黙していった。
連合軍はニューギニア島北岸での作戦を続行した。4月22日からのホーランジアの戦い で、アメリカ軍は大部隊で上陸作戦を敢行した。フェニックスはフルボント湾 (英語版 ) に入って砲撃を行い、上陸部隊の進撃を容易にした。ホランジアにいた第九艦隊 は壊滅した。4月29日から30日の夜にかけてはパプア州 ワクデ島 とサワールのにある日本軍の飛行場と不時着場に対して艦砲射撃を行い、この方面での航空反撃の可能性を削り取った。5月17日、連合軍はワクデ地区に上陸し、2日後にワクデ守備隊は玉砕した。
ビアク島
引き続き、ビアク島 とチェンデラワシ湾 への攻勢が始まった。マッカーサー大将はこの方面に重爆撃機 の基地を建設することを計画していた。日本軍もビアク島に飛行場を建設していたが、滑走路1本が使用可能になった程度だった。5月25日 、フェニックスはナッシュビルおよび軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47 ) と共にフルボント湾を出撃、27日 から始まったビアク島上陸 を支援した。ビアク島には日本海軍の第28根拠地隊(司令官千田貞敏 少将)と、日本陸軍の歩兵第222連隊(連隊長葛目直幸 少将)が配備されていた。日本軍の抵抗は熾烈で、火力支援部隊が沿岸部の日本軍陣地を砲撃した際に、2隻の駆逐艦が反撃を受けて損傷した。フェニックスは5インチ砲を以って陣地を破壊した。
この方面の日本海軍水上部隊を指揮していたのは、南西方面艦隊 隷下の南西方面警戒部隊指揮官 (NSGB) 第十六戦隊司令官左近允尚正 少将であった。南西方面艦隊や第四南遣艦隊 、さらに連合艦隊の意見具申により、大本営 は南方軍 の海上機動第二旅団 を海軍艦艇で輸送することに決定した。これが渾作戦 である。本作戦に第二方面軍 司令官阿南惟幾 陸軍大将も大きな期待を寄せていた。
日本軍が増援部隊の派遣を検討する中、ビアク島では激戦が続いていた。日本陸海軍航空部隊は、ニューギニア島 の西パプア州 ソロン やバボ を拠点に、ビアク島方面の連合軍に空襲を敢行した。
6月4日 、フェニックスは他の艦艇と共にニューギニア北西岸を航行中、日本軍攻撃隊(零戦 19、一式戦闘機 12、彗星 6)に攻撃された。日本側はホノルル型軽巡 2隻、オマハ型軽巡 2隻、駆逐艦8隻(実際は乙型巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃し、ホノルル型1撃沈おおむね確実、オマハ型1隻に至近弾、グラマン 2撃墜、零戦1未帰還(さらに着陸時3機大破)・彗星1未帰還を報じた。フェニックスには2機が攻撃を行い、対空砲火を打ち上げたものの撃墜することは出来なかったが、照準を狂わせることが出来た。2機が投じた爆弾は至近弾となり、1発は1名を戦死させて4名を破片で負傷させた。別の1発はフェニックスの船体とスクリューに損害を与えた。ほかに姉妹艦ナッシュビルが至近弾で損傷した。
翌6月5日 の夜にもビアク島近海で一式陸上攻撃機 小数機の航空攻撃を受けたが、対空砲火を打ち上げて追い払う[注釈 5] 。陸攻隊は巡洋艦1隻轟沈と駆逐艦1隻撃沈を報告し、全機帰投した。
フェニックスが僚艦と共にニューギニア北西岸を航行している頃、日本海軍の艦艇多数[注釈 6] を投入した第一次渾作戦が実施されていた。第一次渾作戦部隊は6月2日 夕刻にミンダナオ島 ダバオ を出発し、ビアク島にむかった。
だが翌3日 、B-24 2機に触接された上に「敵有力部隊ニューギニヤ北西部行動中」という理由で中止された。扶桑と第五戦隊はダバオに引返し、輸送部隊はラジャ・アンパット諸島 のワイゲオ島 を経由して6月4日 夜、ソロンに入泊した。日本陸軍偵察機が「空母2隻、戦艦3隻、駆逐艦約10隻」を報じて、これを「敵有力部隊」と判断した結果だったが、実際はフェニックスを含む巡洋艦部隊であった。
6月8日 から6月9日 の夜にかけて、フェニックスはヴィクター・クラッチレー (英語版 ) 少将 (オーストラリア海軍 )率いる第74任務部隊 (Task Force 74 ) の一艦として、ビアク島に逆上陸を試みる日本軍の動きを警戒していた。そんな最中、第二次渾作戦 でビアク島に向けて進撃中の、日本軍駆逐艦5隻が任務部隊に迫りつつあった[注釈 1] 。左近允尚正少将は重巡青葉 や軽巡鬼怒 をハルマヘラ島 バチャン泊地に退避させ、駆逐艦6隻のみで8日 早朝にソロンを出撃、ビアク島を目指していた。だが、昼間にP-38 とB-25 の反跳爆撃 で駆逐艦白露が小破、駆逐艦春雨 が沈没し、第27駆逐隊司令白浜政七 大佐が戦死した。それでもビアク島揚陸の決意を変えず、進撃を続けていたのである。
第74任務部隊(重巡オーストラリア 、軽巡フェニックス、軽巡ボイシ、駆逐艦14隻)は夜戦 で日本軍輸送部隊(駆逐艦5隻)を迎え撃った。しかしアメリカ艦隊を発見した左近允少将指揮下の輸送部隊は、魚雷を発射しつつ高速で退却する[注釈 7] 。圧倒的優勢の第74任務部隊はレーダー で砲撃をおこないつつ追撃したが、逃げ切られた。西野(時雨駆逐艦長)は、輸送部隊の最後尾にいた時雨に敵艦隊が距離約5,000mまで迫っていたと回想している。時雨は後部砲塔で反撃し、敵巡洋艦に命中弾5斉射を認めたが、敵弾2発が命中して戦死7名、重軽傷15名を出している。
時雨などを取り逃がしたフェニックスと僚艦は、ゼーアドラー湾 に帰投した。日本海軍は大和型戦艦 の投入を決断し、第三次渾作戦を開始した。ハルマヘラ島 バチャン泊地に重量艦(大和 、武蔵 、妙高 、羽黒 、青葉 )を含む渾作戦部隊が集結した。だがサイパン島 の情勢が急変 し、6月13日をもって第三次渾作戦は中止された。さらにマリアナ沖海戦 が連合軍の勝利で終わると、マッカーサー部隊に対する日本軍の圧力は消滅した。
一息ついたフェニックス達は整備をおこなった後、7月2日にヌムフォア島 (英語版 ) を艦砲射撃し、上陸を支援した。砲撃の後、フェニックスのいる海域には日本兵の死体や飛行機の残骸が漂流していた。続く9月15日からのモロタイ島の戦い では、フェニックスはボイシ、ナッシュビル、シュロップシャーおよび重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84 ) と共に、モロタイ島上陸部隊の援護のためハルマヘラ島 を砲撃した。
フィリピン
10月17日 のレイテ湾スルアン島 上陸、つづいて20日 のレイテ島 上陸 から、アメリカ軍のフィリピン奪還戦 が始まった。フェニックスは、第77任務部隊(指揮官、第七艦隊司令長官キンケイド 中将)に所属し、巡洋艦4隻(フェニックス、ボイシ、シュロップシャー、オーストラリア)と駆逐艦部隊で第77任務部隊第3群を編成しており、ラッセル・S・バーキー (英語版 ) 少将の旗艦であった。第77任務部隊にはこのほかに、ジェシー・B・オルデンドルフ 少将の戦艦部隊(第77任務部隊第3群)、トーマス・L・スプレイグ 少将の護衛空母部隊(第77任務部隊第4群)がいた。マッカーサー大将はナッシュビルを旗艦としていた。フェニックスは戦いの初日、上陸前の砲撃を大いに行って日本軍の防御拠点を破壊し、上陸した第19連隊 (英語版 ) の進撃を容易にした。第77.3任務部隊では作戦中にオーストラリアが空襲で損傷し、前線を離脱した。
10月24日 昼間、ハルゼー提督が指揮する任務部隊 のうち、空母エンタープライズ と空母フランクリン (USS Franklin, CV-13 )の攻撃隊はスールー海 を東進中の第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊 もしくは西村部隊 )を攻撃し[注釈 2] 、戦艦扶桑 と駆逐艦時雨に若干の損害を与えた。キンケイド提督は、西村艦隊と後続の第二遊撃部隊(通称「志摩艦隊」)がスリガオ海峡に向かいつつあると判断した。第38任務部隊の空母群は第一遊撃部隊 (通称「栗田艦隊 」)に集中攻撃を加えており、第77任務部隊は独力で西村艦隊と志摩艦隊の進撃を阻止せねばならなかった。
10月24日 深夜から25日 夜明けにかけて、第77任務部隊はレイテ沖海戦 の戦いの一つであるスリガオ海峡夜戦 を戦った。第77任務部隊の戦艦部隊と巡洋艦部隊はスリガオ海峡 の警戒に従事し、丁字戦法 で西村艦隊を迎撃する。連合軍駆逐艦部隊の雷撃で4隻が沈むか戦闘不能になったので[注釈 8] 、スリガオ海峡を北上してきたのは戦艦山城 (第二戦隊司令官西村祥治 中将旗艦)、重巡最上 、駆逐艦時雨にすぎなかった。第77任務部隊は丁字戦法で日本艦隊の残存部隊に集中砲火を浴びせた。フェニックスは6インチ砲を発射し、そのうちの4発が命中したと判断された。相手は山城だと推定された。この砲雷戦で山城が沈没し、西村提督が戦死する。連合軍も駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649 ) が味方巡洋艦の15cm砲弾多数を被弾して大破(同士討ち )、最上と時雨は損傷しつつも反転して退却した[注釈 9] 。
第77任務部隊の巡洋艦や駆逐艦は、艦首を失っていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた。
時雨に逃げられたフェニックスは、引き続きレイテ湾 の哨戒を行った。11月1日朝、10機の雷撃機が侵入してフェニックスとその周辺の艦船を攻撃した。9時45分、フェニックスは対空砲火を打ち上げたが、その5分後に駆逐艦クラクストン (英語版 ) (USS Claxton, DD-571 ) は神風 の突入を受けた。フェニックスの5インチ砲は別の神風に向けられたが、駆逐艦アムメン (英語版 ) (USS Ammen, DD-527 ) への突入を許してしまった。9時57分には、雷撃機がフェニックスに向けて魚雷を落下させんとしたが、フェニックスはこれを回避で雷撃機を撃墜した。しかし、雷撃機に気を取られている間に、駆逐艦キレン (英語版 ) (USS Killen, DD-593 ) に神風が突入して損害を与えた。2時間半後、午前中以上の神風の大群が押し寄せ、13時40分に駆逐艦アブナー・リード (USS Abner Read, DD-526 ) に1機が突入してアブナー・リードは炎上し沈没。他の神風は別の駆逐艦に向かっていったが、フェニックスの対空砲火はこれを撃墜した。
ミンドロ島の戦いでの、対空要員たち(1944年12月15日)
フェニックスは12月5日と10日にも神風攻撃を受けたが、5日の攻撃は2機を撃墜して事なきを得、10日の攻撃は40ミリ機関砲で撃墜し、フェニックスから100メートル離れた海中に墜落していった。12月13日、ミンドロ島の戦い のため上陸部隊を護衛してミンダナオ海 を航行中だったナッシュビルは神風攻撃で大損害を受けた。2日後の12月15日、フェニックスはミンドロ島 上陸部隊への火力支援の傍ら、5インチ砲で日本機を追い払っていた(ミンドロ島の戦い、礼号作戦 )。ミンドロ島の確保と飛行場建設は、南シナ海 の日本船の航路を脅かし、ルソン島の戦い を支援する下地を与えた。
1945年(昭和20年)初頭、ルソン島 リンガエン湾 に向かう上陸部隊の護衛を行っていたフェニックスは、シキホル島 近海で潜航中の潜水艦(特殊潜航艇 )の司令塔を発見した。マッカーサー元帥は姉妹艦ボイシに乗艦していた。マッカーサーによれば、雷撃を回避したあと護衛の駆逐艦が爆雷を投下し、浮上してきた日本軍の豆潜水艦数隻を駆逐艦が体当たりして沈めたという。フェニックスは魚雷2本を回避し、逆に潜水艦に体当たりしてこれを始末したと主張している。日本側の記録によれば、特殊潜航艇甲標的 を運用していたのはセブ島 の第三十三特別根拠地隊(司令官原田覚 少将)であった[注釈 10] 。
2月13日から28日にかけては、マッカーサー元帥の「故地」コレヒドール島 とバターン半島 の奪還を支援する。ルソン島を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はフィリピンからインドネシア方面の掃討作戦をおこなう。一息入れた後、6月29日から7月7日まではボルネオの戦い の一つであるバリクパパンの戦い (英語版 ) に先駆けて機雷 除去作戦を支援した。この方面の日本軍の抵抗は大きく、機雷と防御砲火により11隻の掃海艇 を撃沈または損傷させた。フェニックスは火力支援で防御砲火を沈黙させ、部隊を上陸させた。
フェニックスはオーバーホール のため真珠湾に向かっている途中に終戦を迎えた。9月6日にパナマ運河 を通過し、大西洋艦隊 に配属された。
退役とアルゼンチンへの売却
1946年(昭和21年)2月28日、フェニックスはフィラデルフィアで退役し、保管艦状態となった。1951年4月、姉妹艦ボイシ (USS Boise, CL-47 ) と共に、アルゼンチン に売却される[注釈 11] 。当初、フェニックスはフアン・ペロン 大統領により「ディエシシエテ・デ・オクトゥブレ」 (ARA Diecisiete de Octubre ) と命名された。つづいてペロンの失脚後に「ヘネラル・ベルグラノ 」(ARA General Belgrano, C-4 ) と改名され、アルゼンチン海軍 で運用された。フォークランド紛争 (Guerra de las Malvinas )に参戦中の1982年(昭和57年)5月2日、イギリス海軍 のチャーチル級原子力潜水艦 (Churchill class submarines ) コンカラー (HMS Conqueror, S48 ) の魚雷攻撃を受け、左舷艦首と艦尾部分に魚雷が命中する。魚雷命中から間もなく左舷に傾斜し、沈没した。
脚注
注釈
^ a b * 敷波 (第十六戦隊司令官左近允尚正 少将)
「春雨 」は昼間の空襲で沈没していた。
^ a b 遊撃部隊第三部隊(1YB3H )のこと。指揮官は第二戦隊司令官西村祥治 中将(旗艦:山城)
^ セントルイスは湾口で待ち伏せていた特殊潜航艇「甲標的 」に襲われ、魚雷を回避した。
^ 機動部隊指揮官は、第一航空艦隊 司令長官南雲忠一 中将 であった。
^ 第七三二海軍航空隊 の陸攻3機と第七五三海軍航空隊 の陸攻1機で、雷装3機・爆装1機であった。
^ 間接護衛隊(扶桑 、風雲 、朝雲 )、第五戦隊(妙高 、羽黒 )、第十六戦隊(青葉 、鬼怒 )など。
^ 日本側は戦艦1、巡洋艦4、駆逐艦8隻と認識した。
^ 戦艦扶桑 、駆逐艦満潮 、駆逐艦山雲 、朝雲 。
^ 最上は第77任務部隊の砲撃で大破したあと、第二遊撃部隊 (志摩清英 中将)の重巡那智 と衝突したが、スリガオ海峡からの退避に成功した。だが日中になり空母艦載機の雷撃で航行不能となり、志摩艦隊の駆逐艦曙 が雷撃処分した。
^ 甲標的部隊側は、1月3日の出撃で駆逐艦1隻撃沈と衝突事故で輸送船2隻沈没、1月5日の出撃で駆逐艦と艦種不明各1隻撃沈、巡洋艦1隻撃沈と記録している。
^ ボイシはヌエベ・デ・フリオ (スペイン語版 、英語版 ) (ARA Nueve de Julio,C-5 ) と改名された。1978年に退役後、部品はベルグラーノに流用された。
出典
参考文献
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関連項目
外部リンク