レコーディングは全国ツアー「BOØWY'S BE AMBITIOUS TOUR」の合間を縫うように日本国内の各地にて行われ、同バンドとしては最も長期間且つ多岐に亘る箇所でのレコーディング作業となった。エンジニアとして前作を手掛けたマイケル・ツィマリングが参加しており、ベルリン滞在による影響を受けた氷室による歌詞とニュー・ウェイヴのサウンドを昇華させた布袋によるアレンジを特徴としている。
6月からは小規模なツアーとして「BEAT TO PLATON」を6都市全8公演で開催、イベント参加としては7月20日に小樽第2埠頭にて行われた「ボートフェス」、8月3日には日比谷野外音楽堂にて行われた「アトミック・カフェ・フェスティバル」に参加した[7]。8月22日には12インチシングルとして「BAD FEELING」のリミックスバージョンをリリースし、9月より初の本格的な全国ツアーとなる「BOØWY’S BE AMBITIOUS TOUR」を実施、その後10月よりライブツアーの合間を縫う形でレコーディングは進められていた[8]。また、ツアー最終日である12月24日の渋谷公会堂の公演では、メンバーの布袋寅泰と歌手である山下久美子の結婚が報告された[9](後1997年に離婚[10])。
1985年10月24日より本作のレコーディングは開始され、28日まではミュージックインスタジオ、翌29日から31日までは河口湖スタジオ、11月15日から20日までは伊豆キティスタジオ、11月27日、28日、12月1日、2日はKRSスタジオ、12月7日にはマグネットスタジオ、12月8日には東芝EMIスタジオと合計20日、6カ所のスタジオを使用して完成した[16]。トラックダウンは同年12月29日から1986年1月6日にかけてベルリンのハンザ・スタジオにて行われた[16]。本作のレコーディングはライブツアー「BOØWY’S BE AMBITIOUS TOUR」の空き時間を利用して合間を縫うようにして1か月半程度のタイトなスケジュールで行われた[8]。メンバーからの要望によりレコーディング・エンジニアには前作を手掛けたマイケル・ツィマリングが再び参加している[17]。レコーディングは日本国内で行われたため、ツィマリングはそのために来日することとなった[18][19]。山中湖および河口湖、伊豆などリゾート・スタジオと呼ばれる場所を使用した合宿レコーディングであり、伊豆での食事の豪華さにメンバーおよびスタッフ一同は感嘆の声を挙げていたという[8]。
作詞に関して氷室は、前作まではスタジオ内で2週間程度で熟慮せずに行っていたが、本作では集中するために郷里に帰省して自宅に籠って行っており、本作の詞は「深く読めない人にもラヴ・ソングにきこえて、しかし、本当にわかっちゃう人には、すごくわかっちゃうっていう詞を書きたかったんだ」と述べている[21]。また、氷室からの要請により本作にて松井恒松が初めて「LIKE A CHILD」にて作詞を手掛ける事となり、歌詞中の「クリスチャーネ」という名前は氷室が提案したものであった[24]。当時のインタビューにおいて歌唱法が優しくなっているのではないかと問われた氷室は、それまではシャウトする事で周囲から喜ばれると理解した上であえて行っていたが、毎回同じパターンでは誤解される恐れを感じた事から「今回は、一作詞家として、一ヴォーカリストとして、自分を表現したかった」と述べている[21]。1991年のインタビューにおいて氷室は、本作の歌詞に関して「あの頃だから書けたんだよね」と述べており、また現状では本作のような歌詞を全曲分制作することは不可能であると述べている[18][19]。6曲目「1994 -LABEL OF COMPLEX-」にはゲストボーカルとしてシンガーソングライターである吉川晃司が参加している[8]。当時はフィーチャリングという概念が一般的ではなく、所属レコード会社の枠を超えて別アーティストの作品に参加する事は非常に困難であったが、布袋の妻である山下と吉川が同じ事務所であったために実現した[8]。また、吉川と布袋は曲タイトルに含まれている言葉を使用した「COMPLEX」というユニットを後に結成している[8]。
松井は自著『記憶』にて本作は氷室と布袋の両名が実験的なアプローチをしたアルバムであると述べ、ビートルズで例えるなら『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967年)のような作品であると位置付けている[25]。高橋は自著『スネア』にて本作は氷室の色が強く出ていると述べ、次作である『BEAT EMOTION』(1986年)は布袋の色が強く出ていると述べている[26]。タイトル曲である「JUST A HERO」に関して、氷室は若者へのメッセージソングであると述べ、松井は同曲のテーマは「勇気」であると述べている[21]。本作のタイトルは当初『ROUGE OF GRAY』が有力候補となっていたが、事務所プロデューサーであった糟谷銑司の強い意向により『JUST A HERO』に決定した[8]。また「ROUGE OF GRAY」はシングルカットの候補曲として、最後まで「わがままジュリエット」と競った曲であった[8]。
音楽誌『別冊宝島1322 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にて文芸評論家の町口哲生はポップな楽曲として3曲を挙げ、「わがままジュリエット」は間奏のギターソロや歌詞の面白さが魅力、「JUSTY」はアップテンポなリズムでスパニッシュギターからエレクトリック・ギターに移行するアレンジやサビがキャッチーである事、「ミス・ミステリー・レディ」はイントロに「禁じられた遊び」(1952年)の逆再生が使用され電磁ノイズのようなギターソロが重ねられている事などが特徴であると指摘した[20]。さらにメッセージ色の強い楽曲として2曲を挙げ、「1994 -LABEL OF COMPLEX-」の着想がデヴィッド・ボウイのアルバム『ダイアモンドの犬』(1974年)に収録された楽曲「1984年」であると推測し1994年のメトロポリスを舞台に逆説的なメッセージが盛り込まれていると指摘、「BLUE VACATION」は「<レジスタンス~>といった歌詞がアルバム自体を撹乱するかのごとく挿入されている」と述べ、それぞれの曲に登場する「プロレタリア=市民社会の外部に見放された下層ブルジョア」もしくは「レジスタンス=抵抗、反抗、妨害」という言葉により「アイロニカルな意味で矛盾するように構想された楽曲」であると指摘した[27]。その他にも、「DANCING IN THE PLEASURE LAND」は、「イントロから引き込まれるダンサブルな楽曲」、「ROUGE OF GRAY」は打ち込み音が主体である事を指摘した上でデヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」(1983年)のような楽曲であると指摘、「PLASTIC OCEAN」は「英詩によるストレートなロックンロールである楽曲」と触れた上で、本作の音楽性が「BOØWYのバックボーンとなる音楽が1枚にパッケージ化され、彼らならではのニュー・ウェイブ=「ノー・ウェイブ」が発揮された」と述べている[20]。
ディレクターの子安次郎はデモテープの段階で1曲目になると予感できた曲であると述べた他、「これ以降のバンドの大成功を暗示するかのようなスケールの大きさ、独特な個性、神秘性、時代性などを感じさせる楽曲」とも述べている[8]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にて文芸評論家の町口哲生は、「エレクトロニクスとファンクを上手くブレンドしたダンサブルなナンバー」、「BOØWYの目指したニューウェイブが如何なく発揮された名曲」と述べている[29]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、タムを使用した高橋のドラムス演奏に関して「非常にダンサブル」であると指摘したほか、「エキゾチックな雰囲気漂わせる曲調で、歌詞には氷室独特の言語センスが光っている」と記されている[30]。
「ROUGE OF GRAY」
当初の仮タイトルは「Scritti station」[30]。元々は先行シングルとなる予定であった曲であり、またアルバムタイトル候補ともなった本作の中心的な楽曲[8][30]。子安は「イントロのシンセによる音がとても効果的に使われている」と述べている[8]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの安部薫は、本曲がアルバムが示すサウンドの斬新さが表れた曲であると述べ、ドラムの状態がパワー・ステーションを彷彿させるとし、本曲がシングルカットされていた場合はアルバム『JUST A HERO』は一部のファンにのみ受け入れられ後のBOØWYの存在も変化していたかもしれないと予測した[31]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、「緊張感のあるイントロから歌に入った途端、垢抜けたアーバンな雰囲気へと一変する」と記されており、また布袋による繊細なギターアレンジが特徴であるとも記されている[30]。
ロックンロールおよびロカビリー調の曲[31]。当時まだ発展途上であったCD市場の拡大のために収録され、アナログレコード盤には収録されていない[8]。作詞担当のポール・ジャンセンとは2名による共作のペンネームであるが、人物の正体は明かされていない[8][30]。全英語詞の曲であり、書籍『PERFECT BOOK BOØWY』によれば歌詞の内容は「何をしても忘れられない昔の恋人に対し、再び戻ってきて欲しいと願う心情」が表現されている[30]。
「JUSTY」
バラエティ番組『いきなり!フライデーナイト』(1986年、フジテレビ系列)のオープニングに使用された[4]。本作リリース当時にスバル・ジャスティが発売されテレビCMが頻繁に放送されていた事から、CM曲として「JUSTY」を売り込んだが拒否されたというエピソードがある[8]。また本来「JUSTY」は他アーティストへの提供曲として制作されたが没となったためBOØWYの曲として使用される事となった[8]。子安は「メロディー、リズムパターン、言葉の乗り方、作品の展開のどれをとっても見事な出来」と述べている[8]。リリース当時のテレビ出演では頻繁に演奏された[32]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの齋藤奈緒子は、イントロのギターリフが印象的でありその後タイトな8ビートと王道のメロディーによるロックンロールナンバーへと展開する曲であると述べた他、スパニッシュギターからギターソロへ移行する点などを踏まえ「外し技が施され、単なるポップナンバーに留まらないハードルの高さを設定している」と指摘した他、デザートを意味するフランス語「デセール」やジャマイカのラム酒である「ボナンザグラム」などが使用された氷室による歌詞にも着目している[33]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、Aメロがサビのようにキャッチーな曲であると指摘したほか、サビ部分のバック演奏がイントロと同一であることを記している[30]。また、スパニッシュなアコースティック・ギターによる演奏からリバーブが掛かったエレクトリック・ギターの演奏に繋がるギターソロに関しても非常に凝っていると指摘したほかに「ドラマティックな展開」であると記している[30]。トリビュート・アルバム『BOØWY Tribute』(2003年)において、藤木直人によるカバーが収録されている[34]。
「JUST A HERO」
BOØWYの曲としては珍しく5分を超える大作となっている[8]。曲間に入るコーラス部分の英詞は、デヴィッド・ボウイの楽曲「チェンジス(英語版)」(1972年)の一節を引用している[30]。子安は「BOØWYが持っていた"アンチテーゼ"と"ポピュラリティー"という二面性にも通じる素晴らしいタイトル」であると述べている[8]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの宮城正樹は、イギリスのニュー・ウェイブを導入していた時期の代表的な曲であると述べている[33]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、イントロに関して「シンセサイザーを多用した空間の広がりを感じるプログレッシヴな導入部分」と指摘し、また徐々に音数が増えていくことに触れた上で「壮大な展開の楽曲」であると記している[30]。
SIDE 2
「1994 -LABEL OF COMPLEX-」
本曲に関して町口は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』(1949年)からの影響でデヴィッド・ボウイが制作し、アルバム『ダイアモンドの犬』(1974年)に収録された楽曲「1984年」からの着想ではないかと述べている[27]。またレコード会社契約上の問題でクレジットに一切記載はないが、当時布袋と親交のあったシンガーソングライターである吉川晃司が、氷室とのツインボーカルの形でゲスト参加している[8][35]。『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』では、「詞の意味より語感を重視する傾向は特にこの曲で顕著」と記している[32]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にて齋藤は、氷室による歌詞が散文的あるいは断片的なイメージであると指摘し、ニュー・ウェイブやファンク、スパニッシュギターなどが盛り込まれたトリッキーなアレンジであり『JUST A HERO』を象徴する攻撃的な曲であると述べている[36]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、「ミドルテンポのスリリングなサウンドの上に氷室の難解な歌詞が乗る曲」であると指摘した上で、歌詞に使用された単語からメンバーが思い描く1994年のイメージが感じ取れると記されている[30]。
「ミス・ミステリー・レディ (Visual Vision)」
当初の仮タイトルは「VISUAL VISION」であり、正式なタイトルにおいても副題として使用されている[30]。イントロの部分は「禁じられた遊び」を逆回転したもの[32][30]。BOØWYの楽曲は積極的にタイアップの交渉は行われなかったが、本曲は化粧品のCMに合っているとの声が多数寄せられたと子安は述べている[37]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、「『禁じられた遊び』を逆回転させたイントロからスピード感のある本編へ雪崩れ込む、隠れた名曲」であると記されている[30]。氷室のベスト・アルバム『L'EPILOGUE』(2016年)において、氷室自身によるカバーが収録されている[38][39]。
「BLUE VACATION」
子安は布袋のコーラス・ワークが後のソロ作品に向けての試みとなった可能性を示唆した他、「氷室のキワドイ歌詞に絡みつくように構築されているコーラスが、とても印象的である」と述べている[37]。とあるライブにおいて氷室がこの曲の演奏終了後にバック転をした事がある[32]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にて町口は、イントロとエンディングが変化に富んだガムランのようなリズム構造の曲であると述べた他、歌詞に関しては「退廃的で、気だるい雰囲気が独特で妖しい美しさを醸し出している」と述べている[29]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、「シンセとクリーンギターの兼ね合いが透明感を醸し出す一曲」であると指摘した上で、歌詞に関しては韻の踏み方が特徴的であり、またバック演奏の雰囲気に反する女性目線のエロティックな内容であることに触れた上で、「かき鳴らすようなギターソロは淫靡な喘ぎ声のようにも聴こえる」と記されている[40]。
「LIKE A CHILD」
氷室から勧められたために松井が作詞を行っており、「クリスチャーネ」という名前や詞の世界観は氷室から要求されたと松井は述べている[24]。「JUST A HERO TOUR」では松井がシンセベースを演奏している[注釈 1]。子安は「80年代前半に世界に吹き荒れたニューウェイブの香りを強く感じる楽曲である」と述べている[37]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの永井純一は、「布袋の手クセ全開のイントロからはじまり、シンセを導入したリズム隊のシャッフル感が心地よいポップ・ナンバー」であると述べている[33]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、「しがらみで雁字がらめになった大人に対し、『子供』という比喩を用いながら解き放たれるよう促す、ストレートな応援歌」であると記している[40]。また、松井はソロ活動において本曲を弾き語りで演奏している[32]。
「WELCOME TO THE TWILIGHT」
当初の仮タイトルは「TELL ME」であり、クリスマスソングとして制作されていた[40]。子安は制作段階で大きく歌詞が変更された曲であると述べ、BOØWYの中で季節を限定した曲はほぼ見当たらないが本作がクリスマスソングとして制作されていれば唯一季節感のある曲となった可能性がある事を示唆した[37]。また、歌詞中にある「アレスクラ」とはドイツ語で「IT'S OK(分かったよ)」の意味であり、子安はツィマリングから教わった言葉であると述べている[8]。また、子安は「エンディングのゴージャスな感じも鳥肌ものである」と述べている[8]。書籍『PERFECT BOOK BOØWY』では、ギターやシンセサイザーの音色に透明感があることから、クリスマスソングとしての名残を感じると記されている[40]。
本作リリース以前のシングルリリースに関して、当初スタッフ側からは「BAD FEELING」のB面曲であった「NO. NEW YORK」を改めてA面曲としてリリースするという提案が出されるもメンバーはこれに強く反対した[42]。また本作からのシングルカットとして、本作制作の過程でスタッフからはロックバンドとして相応しい「ROUGE OF GRAY」をシングル候補曲として推薦されたが、ディレクターの子安は「わがままジュリエット」をシングル候補曲として提示し、「これはBOØWYではない」と難色を示したスタッフの意見もあったものの、同年2月1日に先行シングルとしてリリースされた[42]。
本作をリリース後に行ったフィルムイベントを受ける形で、1986年3月24日の青山スパイラルホールを皮切りに、「JUST A HERO TOUR」と題して全国25都市37公演が行われた[56]。チケットは発売と同時にほとんどの会場で即完売、ステージセットは映画『ブレードランナー』(1982年)を意識したものとなっていた[14]。5月1日の高崎市文化会館公演はビデオ撮影が行われ、後にBOØWYとして初の公式ライブビデオとなる『BOØWY VIDEO』(1986年)に収録された[57]。