1965年メキシコグランプリ (1965 Mexican Grand Prix ) は、1965年のF1世界選手権 第10戦として、1965年 10月24日 にマグダレナ・ミクスカ で開催された。
1961年 から続いた1.5リッター規定最後のレースは65周で行われ、リッチー・ギンサー が全周回トップを走り、自身及びホンダ に初優勝をもたらした。ブラバム のダン・ガーニー が2位、ロータス のマイク・スペンス (英語版 ) が3位となった。
レース概要
ホンダ・RA272 (ホンダコレクションホール 所蔵)
メキシコGPは多くの新しい記録を提供した。1,500cc時代の最後のレースは、イギリス のドライバー、チーム及びエンジンが勝てなかった本年唯一のレースとなった。
この年は市販車の開発に回っていたホンダ の初代チーム監督の中村良夫 が、監督への復帰を志願した[ 1] 。メキシコシティ は標高2,240mの高地で空気が薄く、エンジンパワーの低下に陥りやすいため[ 1] 、燃料噴射装置 への混合比調整に全力を注いだ[ 2] 。
予選はジム・クラーク がポールポジション 、ダン・ガーニー が2番手で、リッチー・ギンサー は2列目の3番手、ロニー・バックナム は10番手[ 注 1] からのスタートとなる[ 1] 。
決勝はポールポジションからスタートしたクラークが序盤でエンジントラブルが発生して後退し、すかさずギンサーが首位に躍り出る。BRM 勢はグラハム・ヒル がエンジントラブルで、ジャッキー・スチュワート がクラッチに問題を抱えて2台ともリタイアした。これでギンサーを追うのはガーニーのみとなり、ギンサーとガーニーの一進一退の緊迫した争いが繰り返されるも、ギンサーは最後まで首位の座を譲らず、2秒89の差でガーニーから逃げ切った。ギンサーにとっては47戦目、ホンダにとっては11戦目でF1初勝利を挙げた。また、本年から本格参戦を開始したグッドイヤー タイヤにとってもF1初勝利となった[ 1] 。チームメイトのバックナムも5位に入賞し、初ポイントを獲得した。
レース終了後、ロータス のコーリン・チャップマン は群衆をかき分けて中村良夫監督に「Congratulation (おめでとう)」と祝福した[ 3] [ 注 2] 。そして、中村監督は東京 のホンダ 本社宛に "Veni,Vidi,Vici. " (来た、見た、勝った と言う意味のガイウス・ユリウス・カエサル の戦勝報告)と電報 を送った[ 4] [ 3] [ 1] 。
エントリーリスト
追記
^1 - サーティースは負傷のため欠場[ 6]
^2 - アイルランドはチームを解雇され、ボンデュラントに交代した[ 7]
結果
予選
追記
^1 - アイルランドはチームを解雇され、ボンデュラントに交代した[ 7]
決勝
ファステストラップ [ 10]
ラップリーダー[ 11]
ランキング
ドライバーズランキング
コンストラクターズランキング
注 :トップ5のみ表示。ベスト6戦のみがカウントされる。ポイントは有効ポイント。括弧内は総獲得ポイント。
注釈
^ バックナムはギンサーに次ぐ4番手となる1分56秒7の好タイムを出していたが、ギンサーがバックナムのマシンでこれを上回るタイムを出したため、ギンサーとマシンを交換させられたバックナムは10番手のタイムしか出せなかった。当時はレースに出走するマシンで出したベストタイムのみが予選タイムの結果とされていた。(中村良夫 1998 , p. 181)
^ ホンダは当初、エンジン供給のみを行う方針であり、この話に乗ったのがロータスのコーリン・チャップマンであった。しかし、供給開始を目前に控えた1964年 初めに契約の破棄を電報で通報されたことから、シャシー も製造するフルコンストラクター としてF1への参戦を開始することになった。(中村良夫 1998 , p. 117-119)
脚注
参照文献
外部リンク