リチャード・"ディッキー"・アトウッド (Richard "Dickie" Attwood 、1940年 4月4日 - )は、イングランド のウルヴァーハンプトン 出身の元レーシングドライバーである。アトウッドは、BRM 、ロータス 、クーパー からF1 に参戦した。F1キャリアでは、表彰台に1度立ち、11ポイントを獲得した。アトウッドはスポーツカーレース でも成功を収め、ポルシェ・917 をドライブして1970年のル・マン24時間レース で勝利を挙げた。
初期の経歴
アトウッドは見習いとしてスポーツカーメーカーのジャガー に入った。1960年にはトライアンフ ・TR3 でレースを始めた。1961年にアトウッドはミッドランズレーシングパートナーシップ (MRP) チームに加入してクラブレースのフォーミュラ・ジュニア (FJ) レースに参戦を開始し、1962年の終わりまでこれを続けた。1963年にこのチームは国際的な舞台へと活動の場を広げると、アトウッドはモナコグランプリ のFJのサポートレースにローラ ・MK5 で勝利し注目を浴びた。シーズンを通じての他の活躍もあり、アトウッドはGrovewood Award(自動車のライターの投票により選出される、イギリス人の有望な若手に与えられる賞)を獲得した。
この成功を背景に、MRPは1964年にF2 クラスにステップアップした。アトウッドはウィーンで優勝し、ポーグランプリ、アイフェルレンネン、アルビグランプリで2位に入った。この当時はトップレベルのグランプリドライバーもf2に並行参戦していた。ポーでは、実にフルワークスのロータス に乗るF1 世界チャンピオンのジム・クラーク に負けただけだった。
F1とその他フォーミュラカーシリーズ
アトウッドのF2でのパフォーマンスによりBRM の経営者、アルフレッド・オーウェン はアトウッドにワークスF1チームのシートを提供した。アトウッドのBRMからの初の出走は、グッドウッド で開催された非選手権レース、"News of the World Trophy"だった。このレースでアトウッドはBRM・P57 で4位となったが、これはコーリン・チャップマン 率いるロータスの車両以外では、優勝車と同一周回でフィニッシュした唯一の車両だった。アトウッドの2度目の出走は1964年イギリスグランプリ で、実験的な四輪駆動車、P67 をドライブした。この四輪駆動車プロジェクトのテストドライバーのアトウッドは、この重量過多のマシンで決勝に駒を進めることに成功し、最後尾ではあったがグリッドを獲得した。しかしながら、P67は基本的にテスト用のものであるため、BRMは決勝を前に出走を取り消した。
アトウッドはティム・パーネル と、パーネルのチームであるレッグ・パーネルレーシングのロータス・25 を1965年シーズン にドライブする契約を結んだ。25はかつては一流のマシンだったが、アトウッドにとっては、1965年にはすでにベストのマシンではなくなっていた。また、搭載されたBRMエンジンも完全に競争力が欠けていた。マシンの信頼性は高かったが、シーズン全体でのポイント獲得は2度の6位だけだった。
F1マシンBRM・P261 をドライブするアトウッド。エンジンキャパシティ以外はアトウッドが1966年と1967年にタスマンシリーズでドライブしたものと同一。
1966年、アトウッドはBRMのタスマンシリーズ チームの一員としてオーストラリア とニュージーランド に向かった。タスマンでのアトウッドのパフォーマンスは、ニュージーランドのレビンでの勝利を含めて有望なものでだったが、それにもかかわらず –1965年のF1での失望的なパフォーマンスが原因かも知れないが– アトウッドは1966年から1967年にかけてはF1のレギュラーシートを得ることはできなかった。この間にアトウッドが出走したのはクーパー のレギュラードライバーペドロ・ロドリゲス の代わりに参戦した1967年カナダグランプリ だけで、このレースではクーパー・マセラティ を10位でゴールさせた。1966年はF2に参戦し、ローマグランプリで勝利を挙げたほか、ポーでは同地で2度目となる2位を獲得した。しかし、1967年にはスポーツカーレースに注力した。
1968年のインディ500 でマイク・スペンス が不慮の死を遂げると、アトウッドは運営者がパーネルに変わっていたBRMワークスチームに再加入し、スペンスの空いたシートに収まった。BRMに戻っての最初のレースはアトウッドにとっての最高のレースだったかも知れない。アトウッドは1968年モナコグランプリ でファステストラップ を記録し、グラハム・ヒル のワークスロータスに次ぐ2位を獲得した。しかしその後の成績は下降線を辿り、シーズンの最終4戦を残しアトウッドはボビー・アンサー と交代させられた。
常にモナコを得意としていたアトウッドは、そのモナコで最後のF1レースをスタートした。コーリン・チャップマンは負傷したヨッヘン・リント の代わりにアトウッドにロータス・49B をドライブさせ、アトウッドは4位を獲得した。これがアトウッドにとって最後のF1ドライブとなったが、フランク・ウィリアムズ のチーム(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ)からブラバム のF2マシンで1969年ドイツグランプリ に参戦した。そのレースを総合6位でフィニッシュし、F2クラスでは2位となった。
スポーツカーレース
ニュルブルクリンク でオープン仕様のフォード・GT40 をドライブするアトウッド(1965年)
1964年にアトウッドはF1でのキャリアをスタートさせたが、フォード のGTプロトタイプのプロジェクトチームから同時期に接触を受け、後にフォード・GT40 を開発に参加した。アトウッドはこの象徴的なレーシングカーの最初のドライバーの一人となり、ジョー・シュレッサー とマシンをシェアして1964年のル・マン24時間レース に出走したが、マシンから出火したためにレースをリタイヤした。アトウッドの主要な国際的スポーツカーレースでの初優勝は南アフリカ で開催された1964年のランド9時間レースで、デビッド・パイパー のフェラーリ・P2 でのものだった。
アトウッドはレーシングドライバーとして、デビッド・パイパーと長く続く関係を持った。アトウッドは以後5年にわたり、250LMや330P3、330P4を含め、パイパーの緑色のフェラーリを様々なレースでドライブし、スポーツカー世界選手権 で何度かポイントを獲得し、マラネロ・コンセッショネアーズチームでパイパーとコンビを組んだ。この期間には、1967年のスパ1000km で3位、ツェルトヴェーグ500kmで2位を獲得した。アトウッドは自身をフェラーリとフォードだけのドライブに制限することはなく、ポルシェ・906 、アルファロメオ・T33 もドライブした。アトウッドは、GT40の後継車ながら失敗作に終わったGTモデル、フォード・P68 の数少ないドライバーの一人にもなった。このマシンで1968年のニュルブルクリンク1000kmに出走したが、メカニカルトラブルによりフィニッシュすることはできなかった。
プライベーターのポルシェをドライブしていたアトウッドは、1969年のスポーツカー世界選手権で、ワークスチームのポルシェをドライブする契約を結んだ。主にイギリス人のヴィック・エルフォード と組んで参戦し、最高位はポルシェ・908 でBOAC500(両ドライバーの地元ブランズ・ハッチ で開催された)とワトキンスグレン 6時間レースでの2度の2位だった。このシーズンの後半、アトウッドは再度象徴的なレーシングスポーツカーの開発に参加した。そのマシンとはポルシェ・917 である。エルフォード/アトウッド組の917LHは1969年のル・マン24時間レース でかなりの時間をリードしたが、残り2時間の時点でギアボックストラブルに見舞われ327周でリタイヤした。
アトウッドとハンス・ヘルマン のドライブで1970年のル・マン24時間レースの勝利に向かうポルシェ・917K
アトウッドは1970年のル・マン24時間レース にも参戦し、ハンス・ヘルマン とともにポルシェ・917Kで勝利を挙げた。ヘルマンとアトウッドは同年のニュルブルクリンクでは908 にマシンを戻して2位を獲得した。このコンビは、翌1971年のル・マン24時間レース ではジョン・ワイヤー 率いるプライベーターチームの917で2位に入った。この年はツェルトヴェーグ1000kmで勝利も挙げたが、シーズン終了後にアトウッドはモータースポーツから引退した。
1984年、アトウッドはアストンマーティン ・ニムロッドのル・マンプロジェクトのために短期間の現役復帰を果たした。このプロジェクトは危機的な状況であり、同年のル・マン24時間レース をマシントラブルでリタイヤすると、アトウッドは第一線から完全に引退した。ヒストリックモータースポーツの人気が高まるとともに、アトウッドはしばしばイベントに登場するようになり、アトウッドの所有する917(スティーブ・マックイーン が栄光のル・マン で使用した車両)の展示を行うようになった。このマシンは、アトウッドのドライブで1970年のル・マン24時間レース を制した車両と同様の塗装が施された。また、アトウッドは年に一度開催されるグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード にもしばしば参加している。
レース戦績
フォーミュラ1
太字 はポールポジション 、斜字 はファステストラップ 。(key )
* は1969年ドイツグランプリにおいて6位でフィニッシュしたが、アトウッドはF2 のシャシーで出場していたため規定により入賞圏内でフィニッシュしたがポイントは与えられなかった。
ル・マン24時間レース
外部リンク