1962年アメリカグランプリ (1962 United States Grand Prix) は、1962年のF1世界選手権第8戦として、1962年10月7日にワトキンズ・グレン・グランプリ・サーキットで開催された。
本レースは100周で行われ、ロータスのジム・クラークがポール・トゥ・ウィンを飾り、BRMのグラハム・ヒルが2位、クーパーのブルース・マクラーレンが3位となった。
レース概要
ロータスの新星ジム・クラークがシーズン3勝目を挙げ、2位に終わったグラハム・ヒルとの差を9点に縮め、ドライバーズチャンピオン争いに望みをつないだ。ブルース・マクラーレンは1周遅れだったが3位となった。
フェラーリは3年連続で、アメリカGPのために大西洋を渡らないことが決まった。チームにとっては悲惨な一年で、前年のチャンピオンが未勝利でコンストラクターズランキング6位に沈んだ。1.5Lレギュレーションの2年目にクライマックスとBRMによって投入された強力な新型V8エンジンが1962年シーズンを席巻し、1961年のフェラーリの利点は完全に消えてしまった。
その結果、フィル・ヒルは母国グランプリに出場できず、さらに悪いことに彼が解雇されたという情報が、グレンの信頼できる情報源から得られたのです!
金曜日の予選は、グラハム・ヒルとリッチー・ギンサーのBRM勢、クラーク、ジャック・ブラバム(デビュー2戦目のブラバム・BT3)が前年のコースレコード1分18秒2を上回った。クラークはその後、1分15秒8という驚異的なタイムを出し、2.5L時代にスターリング・モスが記録したタイムをも上回った。土曜日は雨が降ったため金曜日のタイムを上回れず、トップ6はクラーク、ギンサー、グラハム・ヒル、ダン・ガーニー、ブラバム、マクラーレンの順となった。
日曜日のレースは、4万人のファンが寒さと雨の脅威にさらされた。スタートでクラークがリードし、グラハム・ヒルは彼の後ろの2番手に飛び込んだ。以下、ギンサー、ブラバム、ガーニー、マクラーレンが続くが、チャンピオンを争うクラークとヒルが引き離し、3周目には早くもラップレコードを上回った。ガーニーはブラバムとギンサーを抜いて3位に浮上したが、11周目の「ループ」でハーフアウトしてしまい、ギンサーの後ろに下がった。
12周目、レースを先導するクラークとヒルは既に周回遅れをパスするところまで来ていた。クラークがトラフィックに引っかかる間に、ヒルがクラークを抜きトップに立った。しかし、クラークは19周目に予選タイムより速い1分15秒4を出し、ラップレコードを更新してヒルを抜き返した。ギンサーはギアボックスの不調に苦しんだが、35周目にシフトミスでエンジンがブローするまで素晴らしい走りを見せた。
クラークがヒルの前で快調に首位を走行する中、マクラーレンが3位のガーニーに迫り、57周目に追い抜いた。ガーニーのポルシェエンジンはパワーロスし始め、69周目にブラバムにも抜かれた。ブラバムは4位に入賞し、コンストラクター「ブラバム」としての初ポイントを獲得した。
クラークとヒルは3位以下を周回遅れにした。クラークは70周目に1分15秒0のファステストラップを記録し、チーム・ロータスへ2度目のアメリカGP優勝をもたらすために最大で17秒あったリードを緩めていった。「私は先頭に立ち、そこにとどまり続ける作戦を立てた」とクラークは語った。「スタート直前にドライコンディション向けのセッティングを施した。雨が止んだままで嬉しいよ!」クラークがチェッカーフラッグを受けた瞬間、霧雨が降り始めた。
エントリーリスト
フェラーリはカーナンバー1、2、3でエントリーしていたが、前述の通り欠場したため空き番となった。ロブ・ウォーカー・レーシングチームはモーリス・トランティニアンとリカルド・ロドリゲスの2台をエントリーしていたが、トランティニアンのみの出場となったため、ロドリゲスが使用する予定だったカーナンバー7も空き番となった。
- 追記
- タイヤは全車ダンロップ
- ^1 - エントリーしたが出場せず
- ^2 - P.ヒルは予選のみボニエのマシンをドライブ
結果
予選
決勝
- ラップリーダー[4]
第8戦終了時点のランキング
- ドライバーズ・チャンピオンシップ
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- コンストラクターズ・チャンピオンシップ
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- 注: トップ5のみ表示。ベスト5戦のみがカウントされる。ポイントは有効ポイント、括弧内は総獲得ポイント。
脚注
参照文献
外部リンク