都賀 靜子(つが しずこ、1912年5月18日 - ?)は、日本の女優、元子役である[1][2][3][4][5][6][7]。新漢字表記都賀 静子[1][2][3][4][6][5][7]、本名須永 靜子(すなが しずこ)[1][5]。
人物・来歴
1912年(明治45年)5月18日、東京府東京市本郷区駒込坂下町(現在の東京都文京区千駄木2丁目あるいは3丁目)に生まれる[1][5]。実父は俳優の都賀清司(1885年 - 1946年[8])、実弟はのちに子役となる都賀一司である[1]。
幼少時から都賀清司とともに映画や舞台に子役として出演した[1]。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災のため、関西に移り、1924年(大正13年)には牧野省三率いるマキノ映画製作所の等持院撮影所に入社した[1]。同社は、1924年(大正13年)7月に東亜キネマに吸収合併され、同撮影所は東亜キネマ等持院撮影所となり、都賀は、東亜キネマの甲陽撮影所に異動した[2][3]。1925年(大正14年)6月には、牧野が再度独立、御室撮影所を開いてマキノ・プロダクションを設立、都賀は、東亜キネマからマキノへ移籍した[1][2][3]。満14歳となった1926年(大正15年)6月18日に公開された『祇園情話 春雨草紙 千代香の巻』(監督金森万象)で主演を果たす[1][2][3]。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、都賀は、マキノ智子、松浦築枝、岡島艶子、大林梅子、桜木梅子、生野初子、河上君栄、三保松子、泉清子らとともに「俳優部女優」に名を連ねた[9]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)3月27日に公開された『塩原多助』(監督吉野二郎)を最後に退社している[2][3]。
同年、東活映画に入社したが、同社は同年10月に解散している[1][2][3]。同年、高村正次らによる宝塚キネマ興行に移籍したが、同社も解散に追い込まれ、1934年(昭和9年)1月9日に公開された『空の潜航艇』を最後に、満21歳で映画界を引退したとされる[1][2][3]。しかしながら、1935年(昭和10年)1月10日に公開された日活京都撮影所作品、『維新三剣士』(監督辻吉朗)に出演した記録が残っている[6]。その後、満州国に渡って飲食業の傍ら慰問公演を続け、戦争末期には父・清司も公演に加わったが、間も無く終戦を迎える[1]。ところが、1946年(昭和21年)6月17日、引き揚げの途中に父・清司が死去[1]。一方、弟・一司は出征中であったが、無事に帰還し、後に京扇の製作に携わった[1]。
第二次世界大戦後、東映京都撮影所を中心に、映画界に復帰している[2][3][4][5]。満47歳となった1959年(昭和34年)7月14日に公開された『怪談一つ目地蔵』(監督深田金之助)が、記録に見える戦後最初のクレジットである[2][3][4][5]。1966年(昭和41年)4月には、プロダクション鷹が製作した成人映画『女体標本』(監督木俣堯喬)に、新派の和歌浦糸子(1897年 - 1975年)、岡島艶子(1909年 - 1989年)らヴェテラン女優とともに出演している[2][3][10]。満55歳となった1968年(昭和43年)9月3日に公開された『いかさま博奕』(監督小沢茂弘)に出演したのが、記録に残る最後の作品である[2][3][4][5]。その9年後、満64歳となった1977年(昭和52年)1月、1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象)のフィルムが発見され、京都府フィルムライブラリーにより京都府立文化芸術会館で上映された際、都賀は金森と共に出席して当時の思い出を語り、話題になった[1]。その3年後、満67歳となった1980年(昭和54年)12月31日に発行された『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)の都賀の項には、存命人物として京都府京都市右京区谷口円成寺町の連絡先が示されているが、すでに引退しており、以降の消息は不明である[1]。没年不詳。
フィルモグラフィ
クレジットはすべて「出演」である[2][3]。公開日の右側には役名[2][3]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][11]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
初期
サイレント映画である[2][3]。
東亜キネマ甲陽撮影所
すべて製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[2][3]。
マキノプロダクション御室撮影所
特筆以外すべて製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[2][3]。
東活映画
すべて製作・配給は「東活映画」、すべてサイレント映画である[2][3]。
宝塚キネマ興行
すべて製作・配給は「宝塚キネマ興行」、すべてサイレント映画である[2][3]。
東映京都撮影所
特筆以外すべて製作は「東映京都撮影所」、配給は「東映」、すべてトーキーである[2][3][4][5]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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