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忠魂義烈 実録忠臣蔵

忠魂義烈 実録忠臣蔵
監督 マキノ省三
脚本 山上伊太郎
西条照太郎
製作総指揮 マキノ省三
出演者 伊井蓉峰
諸口十九
撮影 田中十三
編集 マキノ省三
製作会社 マキノ・プロダクション
配給 マキノキネマ
公開 日本の旗 1928年3月14日
上映時間 80分 / 64分(再編集版)
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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忠魂義烈 実録忠臣蔵』(ちゅうこんぎれつ じつろくちゅうしんぐら)は、1928年(昭和3年)製作・公開、マキノ省三(牧野省三)監督による日本サイレント映画剣戟映画である。牧野省三生誕50周年を記念した、320作目の監督作である。

略歴・概要

牧野省三の集大成

かつて1910年(明治43年)、横田商会尾上松之助を主演に『忠臣蔵』を監督して以来、幾度となくリメイクをつづけた牧野省三は、1921年(大正10年)、初めて『実録忠臣蔵』を監督し、発表した。同作には寿々喜多呂九平を初め、多くの人々がその斬新な演出に賞賛を送った[1]。本作はその決定版であり、超大作であった。

1927年(昭和2年)1月、本作の製作が開始。 この年は松竹帝国キネマも忠臣蔵を題材とした映画製作を発表しており、三社による競作は話題を呼んだ[2]。 同年5月、名古屋に「マキノ・プロダクション中部撮影所」を開設、本作の「松の廊下」のシーンのためのセットを建て、撮影を行った[3]。同撮影所の所長には、当時満18歳のマキノ正博が就任した。

監督補に名を連ねた「秋篠珊次郎」は、阪東妻三郎プロダクションの「設立第1回作品」として公開された『異人娘と武士』の監督、本作公開当時満25歳の井上金太郎である。

尚、応援監督として沼田紅緑が参加したが、滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)での雪中ロケーション撮影に参加した折に風邪を引き、その風邪をこじらせてワイルス氏病(レプトスピラ症)を併発して、映画製作中の1927年3月30日に35歳で死去した。

火災をめぐって

当初、主役の大石内蔵助には實川延若松本幸四郎をあてていた[4]が、松竹の妨害で頓挫し[4]、止むなく新派劇の代表的俳優伊井蓉峰を大石役とした。だが、伊井の勝手な演技に悩まされた省三はこの作品は失敗作とみなしていた[4]

本作に出演した嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)は、伊井を「うぬぼれ、度がすぎてますわ。ロケで金屏風立てて小便しよるんダ、アホクサイやら腹が立つやら、指差して笑ろうたら付人に見つかって告げ口された」「ここで思い入れあって大石泣くという芝居ダ。ちっとも泣かしまへん。ああ肝芸で心で耐えているんやなと見ていると、キャメラ・パンして離れてからクククーッ、と拳を眼に持っていきよる。写ってへんがな」と酷評し、自身がマキノプロ退社を決意した理由に、伊井の尊大さとそれを許した省三らスタッフの対応にあったと語った[5]

1928年(昭和3年)3月6日、省三は牧野本宅で本作の編集を行っていたが、フィルムに電球の熱が伝わって引火し、大量のネガフィルムと牧野本宅が全焼した[4]

マキノ・プロダクション撮影部の大森伊八は「うず巻く炎の中で、先生(省三)は直立して呆然と見つめておられた」「私と松田定次は、先生の手を引き必死に炎の中を潜り抜けた」「悪夢の数時間が過ぎて、先生の避難先へと赴いた。そのとき二つのことを、先生は私に申された」「出火の原因は儂だがら警察に呼ばれても関係ないといえ。『忠臣蔵』は焼けて良かったと。」と語ったという[6]

妻・知世子が陣頭指揮を執り、残ったフィルムを編集させて、同月14日には公開にこぎつけた[4]。長尺作品を予定していたが、短くならざるをえなかったため、急遽、マキノ正博を監督に『間者』を製作して本作の併映とした[7]。この『間者』は『忠臣蔵』と同じキャストにより制作され、吉良の側から浪士たちの動向を探るという別編である。制作にあたっては、火災で焼失した『忠臣蔵』の吉良邸討ち入りの場面を録り直している。

スタッフ・作品データ

再編集版スタッフ

1968年に、マキノ省三の40年忌と無声映画鑑賞会の10周年記念として松田春翠の手によって発掘された本作のフィルムに先述の「間者」からの討ち入り場面の映像をつなぎ合わせた再編集版が製作された。冒頭で撮影から再編集までの経緯が字幕で説明されており、両国橋を渡ろうとした赤穂浪士たちが服部一郎右衛門に一喝されて引き返すところで終了する。

キャスト

  1. ^ キネマ旬報社[1976]、p.223-224(岸松雄寿々喜多呂九平」).
  2. ^ 「忠臣蔵」三社競作など映画界は花盛り『中外商業新報』昭和2年1月10日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p18 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ マキノ映画活動史立命館大学、2009年10月29日閲覧。
  4. ^ a b c d e マキノ[1977], p..
  5. ^ 竹中労[1976], p..
  6. ^ 顕彰会[1971], p..
  7. ^ 御室撮影所、立命館大学、2009年10月29日閲覧。

参考文献

外部リンク

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