大谷 鬼若(おおたに きじゃく、1878年9月30日 - 1941年7月28日)は、日本の元俳優、元歌舞伎役者である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。本名今西 友次郎(いまにし ともじろう)[1][2][4][5][6]。旧芸名は大谷 友太郎(おおたに ともたろう)[5]、俳号は大江山(おおえやま)[6]。サイレント映画の時代に、尾上松之助の主演映画の名悪役として知られた[1][5]。
人物・来歴
1878年(明治11年)9月30日、京都府京都市に生まれる[1][4][5][6]。実父の澤田與七(吉田源七[5])は西陣の機業家であったが、実母の私生児として生まれ、祖父母に育てられる[4]。
旧制小学校の子ども時代から芝居が好きで、6歳下の弟とともに親に懇願したが聞き入れてもらえず、数え年16歳になる1893年(明治26年)8月、歌舞伎役者四代目市川市十郎の教えを受け、当時岐阜県安八郡大垣町(現在の同県大垣市)に住んでいた大谷友松のもとへ弟とともに家出をして入門、弟ともどもその門人となり、大谷友太郎を名乗って舞台に立った[1][2][4][5][6]。弟は中村仙太郎を名乗ったが、その後、数え年28歳で病没している[4]。
その後、師のもとを離れて、大谷鬼若を名乗って四国・九州地方を巡業し、数え年27歳になる1904年(明治37年)、京都府京都市にあった千本座に出演し、同座を経営する牧野省三と知り合う[1][2][4][5][6]。1909年(明治42年)には横田商会に入社、おもに尾上松之助が主演するサイレント映画に助演した[1][2][4][5][6]。1912年(大正元年)9月10日、横田商会は福宝堂、吉澤商店、M・パテー商会との合併で日活になり、横田商会の「法華堂撮影所」は「日活関西撮影所」(通称・日活京都撮影所)と改称し、大谷は継続的に同撮影所に所属した[1][2][4][5][6]。同年、長女で一人娘の富見子が誕生する[1]。大谷は、松之助映画に欠かせない悪役俳優となり、娘は「悪役の娘」であることを男子にからかわれた経験をのちに回想している[1]。
1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)によれば、当時、大谷は京都市上京区五辻通七本松西入ル西柳町5番地に住み、身長は5尺3寸(約160.6センチメートル)、体重15貫匁(約56.3キログラム)、妻・長女あり、常用煙草は「ゴールデンバット」を1日5箱というヘヴィスモーカーであった[2][4]。幡随院長兵衛を崇拝し、自選の代表作は『仮名手本忠臣蔵』(監督牧野省三)における斧定九郎役であるという[2]。1926年(大正15年)9月11日に松之助が死去し[11]、大谷も同年を最後に日活を去り、牧野省三の経営するマキノ・プロダクションに移籍した[1][7][8][9]。1929年(昭和4年)7月25日に牧野も死去し[12]、満51歳となっなる同年11月22日に公開された『大逆倫』(監督勝見正義)を最後に、同社を退社、映画界からも引退した[1][7][8]。
晩年も五辻通七本松西入ルに暮らし、骨董商を営み俳句を嗜んだ[1]。1941年(昭和16年)7月28日、脳溢血のため自宅で死去した[1][6]。満62歳没。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば、同書が発行された1979年(昭和64年)の時点では、大谷の長女・富見子は同地に健在であったという[1]。
フィルモグラフィ
クレジットはすべて「出演」である[7][8]。公開日の右側には役名[7][8]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[10][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
横田商会
すべて製作・配給は「横田商会」、すべてサイレント映画である[7][8]。
日活京都撮影所
特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[7][8][9]。
日活京都撮影所第一部
すべて製作は「日活京都撮影所第一部」(時代劇部)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[7][8][9]。
日活大将軍撮影所
すべて製作は「日活大将軍撮影所」(時代劇部)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[7][8][9]。
マキノプロダクション御室撮影所
すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[7][8][9]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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