藤原 正光(ふじわら の まさみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の六男。官位は従三位・参議。
安和2年(969年)に円融天皇が即位すると、正光は新天皇の東宮時代の小舎人であったことも幸いし、13歳にして昇殿を許され、翌天禄元年(970年)従五位下・近江少掾に叙任される。天禄3年(972年)伯父の摂政・藤原伊尹が没して父・藤原兼通が執政になると、翌天禄4年(973年)侍従、天延2年(974年)左近衛少将、天延3年(975年)従五位上、貞元2年(977年)正五位下次いで従四位下と急速に昇進を果たす。しかし、同年11月に兼通が薨去すると、正光は閑職の右馬頭に遷り以後の昇進は滞った。
この間に正光は兼通と兄弟仲が悪かった兼家に接近したらしい。永観2年(984年)花山天皇が即位して兼家の孫・懐仁親王が東宮に立つと正光は東宮昇殿を許され、さらに寛和2年(986年)懐仁親王が即位(一条天皇)し、国母の詮子が皇太后となると皇太后宮権亮に就任するなど、兼家の近臣として認められている様子がうかがえる。同じ年、10年ぶりの昇叙によって従四位上、永祚2年(990年)正四位下と昇進していることも、兼家との関係によるものと想定される。正暦2年(991年)に円融上皇の崩御に伴い詮子が出家すると正光は皇太后宮権亮を停められるが、翌正暦3年(992年)には左近衛中将に任じられた。
長徳2年(996年)疫病の流行などによる公卿の大幅入れ替えや長徳の変を通じて藤原道長が左大臣として太政官の首班に立つと、正光の兄・顕光が次席の右大臣に任ぜられた。同年4月には正光は蔵人頭(頭中将)に補せられ、長徳4年(998年)には中将から大蔵卿に遷った。しかし、兄である顕光より、兼家から引き続いてその子である道長に近かったようで、長保2年(1000年)に道長の娘である彰子が中宮となると中宮亮に任じられている。のちに三条天皇の皇后・娍子の立后に際して、対立する中宮・妍子の父であった道長派の一員として、立后の儀式に出席するよう求めた使者に対して正光が瓦礫を投げつけているが[1]。これは兄の一人である時光が同様に宮中からの退出を道長に妨害された一条天皇の中宮・定子のために退出の上卿を務めたこととは対照的で、兄弟で政権中枢である兼家-道長親子との距離のとり方の違いが表れている(ただし、時光も高光と共に娍子立后の儀式を欠席している)。
その後、蔵人頭の任8年を経て、寛弘元年(1004年)従三位・参議に叙任されて公卿に列す。議政官の傍らで引き続き大蔵卿を兼帯するが、それ以上の昇進はならなかった。三条朝の長和3年(1014年)2月28日に顕光や時光ら兄に先立って薨去。享年58。最終官位は参議従三位大蔵卿。
『枕草子』には「大蔵卿ばかり耳とき人はなし」で始まる段があるが、これは正光を指しているとされ、この中で遠くに座っていた正光が、清少納言が隣にいた人でも聞き返してくるくらいの小声で言ったことを、しっかり聞き逃さなかったことが書かれている。
『公卿補任』による。