藤原 師輔(ふじわら の もろすけ、延喜8年〈909年〉 - 天徳4年〈960年〉)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。日記『九暦』の著者。藤原北家九条流の祖。官位は正二位・右大臣。
概要
関白太政大臣・藤原忠平の次男。
有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。
経歴
摂政・関白・太政大臣として長く朝政を執った藤原忠平の次男として生まれる。承平・天慶年間(931年-947年)に累進して参議を経て、権中納言となる。その後、大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に進んだ。
村上天皇が天暦元年(947年)に即位して以降は、正二位・右大臣として朝政を支える。兄・実頼も左大臣となり、兄弟で天皇を輔佐し、天暦の治と評された。
兄弟間では、兄である実頼が官位の面で先んじ、藤氏長者も譲った。が、後宮争いでは弟である師輔に軍配が上がった。すなわち、村上天皇の女御となった師輔の長女・安子は、よく天皇を助け、憲平親王、為平親王、守平親王を生んだ。対して、実頼の娘・述子も村上天皇の女御となったが、子をなさなかった。これにより、外戚の地位を確立した師輔の子孫(九条流)が藤原北家の嫡流となり、実頼の子孫(小野宮流)は後塵を拝することになる。
天徳4年(960年)師輔は病に伏し[注釈 1]、当時の慣習に従い剃髪出家しようとするが、村上天皇は勅使を送り、師輔の必要たるを励まし慰留しようとした[3]。その甲斐なく病は篤くなり、5月2日剃髪し、同4日薨去。享年52。
師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、村上天皇の崩御後に安子の生んだ憲平親王が即位し(冷泉天皇)、その後は守平親王が続き(円融天皇)、外戚としての関係を強化できたことが、のちに師輔の家系の全盛に繋がり、長男・伊尹を筆頭に、兼通、兼家、為光、公季と実に五人の息子が太政大臣に昇進し、子供達の代で摂関家嫡流を手にする事となった。
- 略系図
人物
- 実頼との比較
最終的に弟・師輔の九条流が兄・実頼の小野宮流を抑えて藤原北家の嫡流となったことから、二人の間でも、師輔が才覚の面で優勢であったとされることが多い。例えば『栄花物語』では兄弟を、「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)と評している。ただし、実際には天暦の治において、実頼が才覚を現したと思われる描写もあり、実際の力関係については異論もある。
- 皇室からの臣籍降嫁
延長8年(930年)頃、醍醐天皇の第四皇女で4歳年上の勤子内親王に密通、のち正式に婚姻が勅許され、臣下として史上初めて内親王を降嫁された[注釈 2]。
その後、勤子内親王が薨去すると雅子内親王を、雅子内親王が亡くなると康子内親王を次々に降嫁され、醍醐天皇の皇女を三人も室にして、皇室との繋がりを強めた。この経緯から、師輔を『うつほ物語』の主人公の1人で「限りなき色好み」の右大将藤原兼雅のモデルとする説もある[4]。
- 平将門の乱
平将門が乱を起こした時、藤原忠文が征東大将軍に任じられたが、交戦する前に乱は平定されてしまった。朝廷では功が論じられ、兄・実頼は忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。世論は師輔こそが長者の発言であるとした。
- 学問
忠平の教育を受けた実頼と師輔はそれぞれ有職故実の流派を確立。実頼は小野宮流、師輔は九条流と呼ばれ子孫に受け継がれる事になった。これを纏めた書物が『九条年中行事』である。師輔と同じく故実に通じた源高明と親交があり、師輔の三女と五女が高明に嫁いでいる。才人であった高明は師輔の後援を受けて栄進する。
また、歌学にも優れ、家集『師輔集(九条右大臣集)』を残している。天暦10年(956年)「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話等が『大鏡』に記されている。勅撰歌人として、『後撰和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に36首が採録されている[5]。
自身の日記『九暦』、子孫に宛てた遺訓書『九条殿遺誡』を残す。
官歴
※主に『公卿補任』の記載による。日付は旧暦であらわす。
系譜
関連作品
日本語版ウィキソースに
藤原師輔著の原文があります。
- 映画
- テレビドラマ
脚注
注釈
出典