素朴集合論(そぼくしゅうごうろん、英: Naive set theory)は、数学の基礎論で用いられる集合論の一つである[3]。形式論理を用いて定義される公理的集合論とは異なり、素朴集合論は非形式的に自然言語で定義される。離散数学で馴染み深い数学的集合の側面(たとえば、 ベン図やブール代数に関する記号の取り扱い)を説明するものであり、現代の数学における集合論の概念を日常的に扱うのに十分なものである[4]。
素朴集合論は、考慮できる集合を正しく指定していれば、必ずしも矛盾を生じるわけではない。これは、暗黙の公理である定義によって行うことができる。ハルモスの Naive Set Theory の場合のように、すべての公理を明示的に述べることができるが、これは実際には通常の公理的ツェルメロ=フレンケル集合論の非形式な表現となる。言語と表記法が通常の非形式的な数学のものであり、公理系の無矛盾性や完全性を扱っていないという点で、素朴集合論は「素朴」である。
“Unter einer 'Menge' verstehen wir jede Zusammenfassung M von bestimmten wohlunterschiedenen Objekten unserer Anschauung oder unseres Denkens (welche die 'Elemente' von M genannt werden) zu einem Ganzen.” – Georg Cantor
x が集合 A の要素である場合、 x は A に属している、または x は A に含まれると表現する。これは x ∈ A で表される。記号 ∈ は、1889年にジュゼッペ・ペアノによって導入された、ギリシャ文字の小文字のイプシロン「ε」から派生したもので、 ἐστί (「is」の意味)という単語の最初の文字である。記号 ∉ は、x ∉ A という表記でよく用いられ「x は A に含まれない」という意味になる。
同一性
2つの集合 A と B は、まったく同じ要素を持っている場合、つまり、A のすべての要素が B の要素であり、B のすべての要素が A の要素である場合に等しいと定義される(外延性の公理を参照)。したがって、集合はその要素によって完全に定まる。たとえば、要素 2, 3, 5 の集合は、6未満のすべての素数の集合と同じである。集合 A と B が等しい場合、これは記号としては普通と同じく A = B と表される。
{x ∈ A : P(x)} はすべての x がすでに A の要素であり、かつ x が条件 P を満たす集合を表す。たとえば、Z を整数の集合とすると、{x ∈ Z : x は偶数} はすべての偶数の整数の集合となる(分出公理を参照)。
{F(x) : x ∈ A} は集合 A の元を式 F に与えて得られる、すべての対象からなる集合を表す。例えば、 {2x : x ∈ Z} は上と同様に偶数の集合を表す(置換公理を参照)。
{F(x) : P(x)} は集合の内包的表記法として最も一般的な形式である。例えば、{ x の飼い主 : x は犬 } はすべての犬の飼い主の集合となる。
部分集合
2つの集合 A と B が与えられたとき、A のすべての要素が B の要素でもある場合、A は B の部分集合である。特に、各集合 B はそれ自体の部分集合である。B と等しくない B の部分集合は、真部分集合と呼ぶ。
A が B の部分集合である場合、B は A の上位集合(スーパーセット)である、A は B に含まれる、または B には A が含まれるとも言える。記号上は、 A ⊆ B が A が B の部分集合であることを意味し、B ⊇ A は B が A の上位集合であることを意味する。部分集合に記号 ⊂ と ⊃ を用いる著者もいれば、これらの記号を真部分集合にのみ用いる著者もいる。わかりやすくするために、記号 ⊊ と ⊋ を明示的に用いて、等しくないことを示すことができる。
例として、R を実数の集合、 Z を整数の集合、O を奇数の整数の集合、 P を現在または過去の米国大統領の集合とする。その場合、O は Z の部分集合であり、Z は R の部分集合であり、(したがって)O は R の部分集合であり、これらはいずれの場合も部分集合が真部分集合として解釈されうる。ただし、すべての集合がこのように比較できるわけではなく、例えば、 R が P の部分集合であったり、P がR の部分集合であったりするわけではない。
2つの集合 A と B が与えられたときに「A = B ならば、そしてその場合に限り A ⊆ BとB ⊆ A である」ということは、前述の集合の同一性の定義からすぐにわかる。実際、これがしばしば同一性の定義として与えられる。また、2つの集合が等しいことを証明するとすれば、普通は上記の2つの包含関係を示すことを目的としている。空集合はすべての集合の部分集合である(空集合のすべての要素が任意の集合 A の要素でもあるという命題は空虚な真である)。
特定の集合 A のすべての部分集合の集合は、 A のべき集合と呼ばれ、 、 、あるいはスクリプトフォントを用いて のように表される。集合 A に n 個の要素がある場合、 は 個の要素を持つ。
普遍集合と絶対補集合
特定の状況では、考えているすべての集合を、特定の普遍集合の部分集合と見なすことができる。たとえば、実数R (および R の部分集合)の性質を調べる場合、 R は普遍集合と見なせる。真の普遍集合は標準集合論には含まれていないが(以下のパラドックスを参照)、一部の非標準集合論には含まれている。
普遍集合 U と U の部分集合 A が与えられると、A の補集合(U の部分集合)は次のように定義される。
AC := { x ∈ U : x ∉ A }
言い換えると、 AC ( "A-complement"。場合によっては単にA' ("A-prime"))は、 A の要素ではない U のすべての要素の集合である。したがって、前節で定義されているように R,Z,O を用いると、 Z が普遍集合である場合、OC は偶数の整数の集合であり、 R が普遍集合である場合、OC は偶数の整数であるか整数ではないすべての実数の集合となる。
和集合、交差、および相対補集合
2つの集合 A と B が与えられたとき、それらの和集合は、A または B 、あるいはその両方の要素であるすべての対象で構成される集合であり(和集合の公理を参照)、A ∪ B で表される。
A と B の共通部分は、 A と B の両方にあるすべての対象の集合であり、A ∩ B で表される。
最後に、 A に対する B の相対補集合(A と B の差集合とも呼ばれる)は、 A に属するが B には属さないすべての対象の集合であり、 A \ B や A − B で表される。
A ∩ B := {x : (x ∈ A) and(x ∈ B)} = {x ∈ A : x ∈ B } = {x ∈ B : x ∈ A}
A \ B := {x : (x ∈ A) and not(x ∈ B)} = {x ∈ A : not( x ∈ B )}
A \ B が意味あるものとするために、集合 B が A の部分集合である必要はない。これは、相対補集合と前節における絶対補集合( AC = U \ A )の違いである。
これらの概念を説明するために、A を左利きの人の集合とし、B を金髪の人の集合とする。すると A ∩ B はすべての左利きの金髪の人の集合であり、Aは ∪ Bは、左利きまたは金髪、あるいはその両方のすべての人の集合である。一方、A \ B は左利きであるが金髪ではないすべての人の集合であり、 B \ A は、金髪だが左利きではないすべての人の集合となる。
ここで、E をすべての人の集合とし、F を1000年以上生きているすべての生物の集合とする。この場合 E ∩ F はどうなるだろうか? 1000歳以上の生きている人間はいないので、 E ∩ F は空集合{}でなければならない。
P を性質とすると、任意の集合 X に対して集合 Y = {x ∈ X : P(x)} が存在する。[12]
この命題には系が存在する。理論の公理として分離公理を用いると、理論の定理は次のようになる。
全集合の集合は存在しない。
または、もっと壮観に(ハルモスのことばで言えば[13] )宇宙は存在しない。証明:宇宙が存在すると仮定し、それを U とする。ここで、 X = U で分離公理を適用し、 P(x) に x ∉ x を用いる。これはラッセルのパラドックスに再びつながる。したがって、 U はこの理論に存在することはできない。(証明終)[12]
上記の構造に関連するのは、集合の構成である。
Y = {x : (x ∈ x) → {} ≠ {}}
ここで、含意に続く言明は確かに偽である。Y の定義から、通常の推論規則(および以下のリンクされた記事の証明を読むときの補足)を用いて、Y ∈ Y → {} ≠ {} と Y ∈ Y の両方が成り立つため、ゆえに {} ≠ {} が成り立つ。これはカリーのパラドックスである。
問題となるのは(おそらく驚くべきことに) x ∈ x の如何ではない。これもまた、 P(x) を (x ∈ x) → {} ≠ {} と置くことを認める無制限の内包公理である。無制限の内包公理の代わりに分出公理を用いると、結論 Y ∈ Y が成り立たず、したがって {} ≠ {} は論理的帰結ではなくなる。
それにもかかわらず、正則性公理の成立を要求することによって[14]、x ∈ x の可能性は明示的に除去される[15]か、またはたとえばZFCでは暗黙的に除去される[14]ことがよくある。その結果の1つは以下の命題である。
^Jeff Miller writes that naive set theory (as opposed to axiomatic set theory) was used occasionally in the 1940s and became an established term in the 1950s. It appears in Hermann Weyl's review of P. A. Schilpp, ed (1946). “The Philosophy of Bertrand Russell”. American Mathematical Monthly53 (4): 210, and in a review by Laszlo Kalmar (Laszlo Kalmar (1946). “The Paradox of Kleene and Rosser”. Journal of Symbolic Logic11 (4): 136.).[1] The term was later popularized in a book by Paul Halmos.[2]
^Mac Lane, Saunders (1971), “Categorical algebra and set-theoretic foundations”, Axiomatic Set Theory (Proc. Sympos. Pure Math., Vol. XIII, Part I, Univ. California, Los Angeles, Calif., 1967), Providence, RI: Amer. Math. Soc., pp. 231–240, MR0282791
Kelley, J.L., General Topology, Van Nostrand Reinhold, New York, NY, 1955.
van Heijenoort, J., From Frege to Gödel, A Source Book in Mathematical Logic, 1879-1931, Harvard University Press, Cambridge, MA, 1967. Reprinted with corrections, 1977. ISBN0-674-32449-8ISBN0-674-32449-8.
Peano, Giuseppe (1889), Arithmetices Principies nova Methoda exposita, Turin
Zermelo, Ernst (1932), Georg Cantor: Gesammelte Abhandlungen mathematischen und philosophischen Inhalts. Mit erläuternden Anmerkungen sowie mit Ergänzungen aus dem Briefwechsel Cantor-Dedekind. Edited by the author., Berlin: Springer