相沢 晋(あいざわ すすむ、1987年6月3日 - )は、新潟県西蒲原郡岩室村 (現在の新潟市西蒲区[1])出身[2]の元プロ野球選手(投手)。
経歴
プロ入り前
小学校4年の時に野球を始め[2]、岩室中学校から[1]新潟県立巻高等学校に進学[2]。2年の秋から投手となり、先輩からはスライダーを教わった[3]。3年時にはチームのエースとなり[1]、同年の新潟県大会では、新潟明訓高等学校戦で12回2/3を投げたが、最後はサヨナラ負けを喫した[3]。甲子園出場経験は無し[1]。
その後、石巻専修大学に進学し宮城県石巻市に移住[4]。2年の秋には、JR東日本東北時代の攝津正よりカーブとシンカーを教わった[5]。4年春の南東北大学リーグでは、全11試合に先発し8勝の成績で[5]MVPを獲得[2]、最多勝、ベストナインも受賞[6]。チームは優勝し[4]、全日本大学野球選手権大会へと進出した[5]。同大会では1回戦の道都大学戦に先発し[7]、9回4失点で負け投手となった[8]。
2010年からは、社会人野球の日本製紙石巻に所属[9]。2012年10月にコーチ兼任となった[10]。2013年の第84回都市対抗野球2次予選東北大会では、第1代表決定戦でTDKを相手に9回無失点(被安打5)で無四球完封勝利し、チームは全国大会への出場を決めた[11]。第84回都市対抗野球大会(全国大会)では、1回戦の信越硬式野球クラブ戦で2回3失点だったものの[10]、七十七銀行から補強選手として参加していた相原和友[注釈 1]がその後を7回無失点に抑えてチームは勝利した[13][14]。2回戦のJFE西日本戦では、相沢が6回無失点(被安打3)に抑え、チームは勝利した[10]。
2013年のプロ野球ドラフト会議で、地元球団の東北楽天ゴールデンイーグルスから8巡目で指名[15]。契約金4,000万円(出来高分の1,500万円を含む)、年俸720万円(金額は推定)という条件で入団した[5]。背番号は62[16]。
楽天時代
- 2014年
- イースタン・リーグ公式戦17試合に登板。防御率2.92を記録したが、同期入団の新人8投手でただ1人、一軍公式戦への登板機会がなかった[17]。シーズン途中にサイドスローに転向していたが、シーズン終了後にオーバースローに再転向した。
- 2015年
- 7月26日にプロ入り後初の出場選手登録を果たすと、当日の対千葉ロッテマリーンズ戦に、救援投手として一軍デビュー。しかし、2回を投げて3点を失い、この試合に登板しただけで同月30日に登録を抹消された。シーズン終盤に一軍へ復帰したが、チームのシーズン最終戦であった10月6日の同カード(楽天Koboスタジアム宮城)の救援登板では、5失点で敗戦投手になった。イースタン・リーグ公式戦では35試合に登板し、防御率1.54を記録するなど好成績を残した。
- 2016年
- 一軍公式戦への登板機会がなく、イースタン・リーグ公式戦でも、7試合の登板で防御率が6.75に達した。シーズン終了後の10月24日に、球団から戦力外通告を受けた[18]。12月2日、自由契約公示された[19]。
楽天退団後
NPB他球団での現役続行を希望し、2016年11月12日には、阪神甲子園球場で開催の12球団合同トライアウトに参加。シートバッティング形式で、打者3人を相手に、最速146km/hのストレートで1奪三振1被安打1併殺打という結果を残した[20]。
2017年から、地元である新潟県に本拠地を置く社会人野球チームのバイタルネットでプレーする[21]。投手兼コーチとしてプレーしたのち、2019年からはコーチ専任。
選手としての特徴
最速146km/hのストレートと、シュート・カットボール等の多彩な変化球を武器とする[22]。また、クイックモーションが速く、投球開始から捕手が捕球するまで1.02秒だという[2]。
人物
石巻市には、大学時代・社会人時代合わせて8年住み[23]、「第二の故郷」と考えている[10]。
2016年1月23日に山形県出身の女性と結婚。交際開始から5ヶ月でのスピード結婚だった。同月には楽天同僚の入野貴大も結婚したため、「W結婚」として報じられた[24]。
詳細情報
年度別投手成績
記録
背番号
登場曲
- 「Get Busy」 Sean Paul (2014年 - )
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク