畔吉(あぜよし)は、埼玉県上尾市の大字。郵便番号は362-0065[3]。
市の統計などでは大石地区で分類されている。
地理
埼玉県の中央地域(県央地域)で、上尾市西部の大宮台地上に位置する[6]。東側を江川の支流の逆川およびその谷戸を挟み中分や小敷谷、南側を丸山都市下水路(長堀)を挟み平方、西側を荒川を挟み比企郡川島町出丸中郷、北側を領家と隣接する。徳星寺の南側の谷戸を本村排水路が流れる。
上尾駅からは4 kmほど西に離れており、徒歩圏ではないため、農地が多く宅地化は進んでいない。全域が市街化調整区域[7]である。荒川の流域沿いは荒川近郊緑地保全区域[7]に指定されている。
地内に畔吉貝塚(県遺跡番号:14-189)や畔吉遺跡(県遺跡番号:14-081[7])など多数の遺跡(包蔵地)があり、貝塚および集落跡の遺構や土器片や石器などの遺物が発掘されている。
- 河川 - 荒川・逆川・丸山都市下水路(長堀)・本村排水路[8]
歴史
もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する畔吉村、古くは南北朝期より見出せる畔吉郷もしくは畔牛郷(あぜうしごう)であった[6]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では556石余(田126石余、畑430石余)[9]、『元禄郷帳』によると230石余、『天保郷帳』によると268石余であった。村の規模は東西10町、南北8町程であった[6]。荒川には江戸への物資の輸送の拠点となる畔吉河岸が江戸中期に開設され、対岸の出丸中郷村を結ぶ畔吉の渡しがあった[11]。徳星寺には寺領3石が寄進されていたことが、1591年(天正19年)11月の『徳川家康寺領寄進状』に記されている[6]。
1875年(明治8年)の農業産物高は『武蔵国郡村誌』によると米115.5石、大麦348石、小麦105.4石、大豆144石、小豆25石、栗60石、甘藷152848斤、菜種60石、製茶187貫であった[12]。
はじめ知行は旗本牧野家、1633年(寛永10年)は立藩され石戸藩領、1650年(慶安3年)より知行は旗本牧野家一族に分地、1701年(元禄14年)は村内を二分して旗本牧野2家による相給。なお、検地は1620年(元和6年)、1667年(寛文7年)、1677年(延宝5年)、1653年(承応2年)、1715年(正徳5年)に実施[6]。1726年(享保11年)より幕府領となる[6][13]。なお、1723年(享保8年)、1733年(享保18年)、1750年(寛延2年)に新田検地を実施[6]。
世帯数と人口
2017年(平成29年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[45]。
交通
- 地内に鉄道は敷設されていない。JR東日本高崎線上尾駅からは4キロほど離れている。下記の路線バスが主要な交通手段となる。
道路
- 国道17号(上尾道路) - 暫定開通
- 駒橋通り - 東武バス車庫前交差点より諏訪神社(西)交差点に至る通り。沿道に道標がある。
- 仲道通り - 工業団地入口交差点より南北方向の通り。沿道に道標がある。
- 上尾サイクリングコース - 荒川左岸沿いを通る歩行者自転車道。
バス
上尾駅西口駅前より西上尾第一団地方面を経由する路線バスが運行されている。
- 東武バスウエスト上尾営業所[46]
- 地区内は「集荷場」、「公民館入口」、「雲雀」、「畔吉」、「前原」、「西通り」停留所が設置されている。
- 上尾市コミュニティバス「ぐるっとくん」[47]
- 地区内は「畔吉集会所前」、「本村」、「雲雀」、「畔吉」、「畔吉新田」、「丸山公園西」、「自然学習館」停留所が設置されている。
地域
町内会
- 上尾市畔吉東部自治会[48]
- 上尾市畔吉前原自治会
- 畔吉新田自治会
- 畔吉雲雀自治会
祭事
寺社・史跡
旧大石村で村内にある神社の合祀が1907年(明治40年)に行われたが、畔吉地区は合祀対象から外れている[49]。なお、合祀先は小泉の氷川神社で、合祀後は八合神社に改称された[50]。
- 天台宗徳星寺 - 弘仁年間(810年〜824年)開基。大カヤおよび暖帯林(県指定天然記念物)がある[51]。
- 諏訪神社[52] - 平方八枝神社の兼務社[20]。境内に市指定有形民俗文化財の「畔吉諏訪神社大山石灯籠」があり[42]、「愛宕社」、「稲荷社」、「八幡社」、「水神社」、「琴平社」、「弁財社」が鎮座する。また、市指定無形民俗文化財の「畔吉ささら獅子舞」が境内で催される[35]。
- 殿山古墳 - 上尾市で墳丘が現存する唯一の古墳[53][注釈 4]。榎本牧場の私有地に所在する。出土品である石器は県指定有形文化財(2000年3月17日指定)[54]。付近には(上尾市立大石南中学校の西方約1 km)江川山古墳もあったが、1897年(明治30年)ごろ開墾により消滅した[55]。古墳の跡地に古墳出土銅鏡の標柱と案内板が設置されている。
- 地蔵院 - 大字畔吉811番地に所在する。大石地区自警消防団第二分団も立地する。十輪寺跡地。
- 畔吉東部共同墓地 - 大字畔吉1166番地に所在する。市指定文化財の「地蔵像板石塔婆」や「木造阿弥陀如来立像」がある[40]。
- もちの木 - 市指定天然記念物。大字畔吉654番地(私有地)に所在する[56]。
- 畔吉河岸跡[11]
施設
関係する人物
出身者
- 新藤慶之助 - 連合戸長、初代大石村村長[61]。また、八塚堤防の建設事業にも大きく関わった。
脚注
注釈
- ^ 「旧高旧領取調帳データベース」の検索結果も参照。
- ^ 1908年3月26日に島田知事宛に工事が竣工した旨の報告が提出されている[26]。
- ^ 一つ目は原市に所在する「原市集会所」。
- ^ 隣接する大字領家に「領家・八幡宮古墳」(県遺跡番号:14-423[7])と称される古墳があるが、塚の可能性もある。
出典
参考文献
- 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第四巻 資料編4、近代・現代1』上尾市役所、1994年3月15日。
- 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』上尾市役所、1998年3月31日。
- 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』上尾市役所、1997年3月31日、431-484頁。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104。
- 上尾百年史編集委員会・編『上尾百年史』上尾市役所、1972年2月10日。
- 上尾市立大石小学校開校百周年記念行事実行委員会・編『大石小学校開校百周年記念誌 校史』上尾市立大石小学校開校百周年記念行事実行委員会、1986年10月25日。
- 「畔吉村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ151足立郡ノ17、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764000/18。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
外部リンク