津田 仙(つだ せん、1837年8月6日〈天保8年7月6日〉 - 1908年〈明治41年〉4月24日)は、日本の農学者、キリスト者。学農社創立者[1]。青山学院大学[1]・筑波大学附属盲学校・普連土女学校[2]の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、キリスト教界の三傑とうたわれた。明六社会員。娘に津田梅子(津田塾大学を創設)、余奈子(アメリカに移住し、日本語新聞『日米新聞』を発行しサンフランシスコの日系人社会のリーダー的存在だった安孫子久太郎と結婚)などがいる。
経歴
佐倉城内に生まれる。父は下総国佐倉藩、堀田氏の家臣小島良親(善右衛門[注釈 1])3男に生まれる。幼名は千弥、仙弥[6]。嘉永4年(1851年)、元服して桜井家の養子となる。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子となる。
15歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で学び、藩主堀田正睦の洋学気風もあり、藩命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学ぶ。安政2年(1855年)に出仕し、江戸では蘭学塾へ入門すると森山栄之助の下で英語などを学ぶ。文久元年(1861年)外国奉行の通訳として採用された。慶応3年(1867年)、小野友五郎が江戸幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに伴い、幕府の小野使節団の一員として福澤諭吉、尺振八と津田の3名が通訳として随行する[7]。帰国後、新潟奉行に転役して、通弁・翻訳御用、英語教授方に就き、戊辰戦争では幕府側として越後へ出向くが、敗れて長崎を経て東京へ戻る。
明治維新が成ると官職を辞して、明治2年(1869年)には築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。明治4年(1871年)には政府が設立した開拓使の嘱託となり、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆が企画し、政府派遣の岩倉使節団に女子留学生を随行させると聞くと、娘の梅(のち梅子に改名)を応募する。使節団が出発した翌月には開拓使を辞職。
民部省に勤めたのち、明治6年(1873年)には、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民(日本赤十字社の創設者)の書記官として随行[注釈 2]。オランダ人農学者のダニエル・ホイブレイクの指導を受け、帰国後の明治7年(1874年)5月に口述記録をまとめて『農業三事』として出版した。津田がウィーン万博から持ち帰ったニセアカシアの種子は、その後明治8年(1875年)に大手町に植えられ、これが東京初の街路樹となった。
明治7年(1874年)、米国メソジスト監督教会婦人宣教会から日本に派遣されたドーラ・E・スクーンメーカーによる女子小学校(後の海岸女学校)の創立に協力。明治8年(1875年)1月、同じく米国メソジスト監督教会で後に青山学院神学部教授も歴任したジュリアス・ソーパー宣教師によりメソジスト派信者として妻の初と共に洗礼を受ける。また、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織する。明治9年(1876年)には東京麻布に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学農社を設立、その一環として農学校も併設した。キリスト教指導も行う。
学農社雑誌局発行の『農業雑誌』で、明治9年(1876年)にアメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始め、これが日本で最初の通信販売といわれている。1月、女工場を開設、続いて栗原信近に招かれワイン醸造技術指導のため甲府を訪れている。また、1890年には東北を視察してリンゴ二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を行なった。
明治16年(1883年)5月には第三回全国基督教信徒大親睦会[注釈 3]の幹部として活躍する。
足尾鉱毒事件では田中正造を助け、農民救済運動に奔走した。明治30年(1897年)には事業を次男に譲り引退、鎌倉で過ごす。明治41年(1908年)、東海道本線の車内で亡くなっている所を発見された。死因は脳出血であった[18]。享年72(満70歳没)。葬儀は青山学院の講堂で行われた[19]。
没後、内村鑑三や新渡戸稲造らは追悼文を発表し、津田の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。
墓所は青山墓地。
学農社
1875年(明治8年)9月1日、麻布東町23番地に学農社を開業した。西洋種苗頒布ならびに『農業雑誌』の発行、農学校の経営に従事する。1876年(明治9年)に校舎落成と同誌の創刊、1877年(明治10年)、麻布新堀町2番地西に移転。1898年(明治31年)、仙が引退すると次男の次郎が社長を後継した。
出版事業は、「民間自由の一大農誌」として定期刊行物『農業雑誌』を1876年(明治9年)に創刊、新しい知識を得て各地に現われた果樹栽培や種苗農家は、農学校卒業生の助けを借りることになる。また、この農業専門雑誌には投稿者や読者が集い、それぞれが生活する場所にありながら、農学校で津田が進めようとした「新しい技術・知識」の共有と新たな時代への対応を、誌面を通じて享受する[24]。津田が唱えた「農は百工の父母」あるいは「自由を重し」とする精神は受容の度合いに差はあれ、各地へバトンタッチされていく。1916年(大正5年)7月、宇喜多秀穂が社長を引き継ぐ。1921年(大正9年)、『農業雑誌』最終号を出版。
学農社農学校
学生数の推移
西暦(年) |
0明治 |
学生数(人) |
備考
|
1875 |
08 |
012 |
|
1876 |
09 |
035 |
※
|
1877 |
10 |
053 |
|
1878 |
11 |
070 |
|
1879 |
12 |
145 |
|
1880 |
13 |
167 |
|
1881 |
14 |
175 |
|
1882 |
15 |
080 |
|
1883 |
16 |
043 |
|
1884 |
17 |
025 |
|
1884 |
17 |
0 |
※※
|
1875年(明治8年)9月1日、麻布東町23番地に学農社農学校を設立、農園は麻布本村町178番地にあり、教員1名、学生12名で授業が始まる。本科の修了年限を3年、予科と別科には年限を設けていない。また学内で日曜学校を開催し、フルベッキ、ジュリアス・ソーパー等を講師に招いた。
1876年(明治9年)7月、農園内に新校舎が落成すると教員7名を置き、学生35名が集った。卒業生は各地の勧業課つまり都道府県の産業育成部門に入り、新しい農業の指導に当たるが、明治14年に政変があるとその影響か、翌年、学生数は半減。帝国議会が開設される明治23年を待たず、農学校は1884年(明治17年)12月に10年目に閉校する。
農業振興を支える『学農社制規』に定めた「物産興隆の道」である収益部門として、農学校を終えた後も学農社は頒布により西洋苗種を普及させ、卒業生はその栽培指導に努めていく。
教師
学生(中退者含む)
50音順
農業雑誌
1876年(明治9年)1月10日創刊、1920年(大正9年)7月、通号1221号まで続く。創刊号の表紙裏にジョージ・ワシントンの言葉を英語とその漢訳で掲げた。
Agriculture is the most healthful, most useful and most noble employment of man.
農者,人民職業中,最健全,最尊貴,而最有益者也.
津田自身も原稿を寄せており、旧仮名遣いと地名はそれぞれ変えて一部を挙げる。
- 通号170号「埋渠の説附図、鳥と虫との関係、蕃椒※1の説、家畜の飼料に蘆粟※2を用いて益ある説」[51]※:1=トウガラシ、2=モロコシ
- 通号282号「酒の害」[52]
- 通号450号「薔薇の改良に就て」[53]
- アメリカ視察について
- 通号492号「渡米隨見録――(ハワイ島、ハワイ産の果実、サンフランシスコ、四日間の汽車、シカゴ市)」[54]
- 通号502号「米国観察一斑」[55]
- 「米国談」1-4、『農業雑誌』第19巻に1894年1月から3月に掲載。(通号504-505号、510-511号)
著作
単著
演説録
共著
翻訳
共訳
校閲
脚注
注釈
- ^ 小島善右衛門の禄高は120石[5]。佐倉藩の勘定頭元締を務めた[5]。
- ^ 肩書きは万国審査官であった。
- ^ 演説集[14]ならびに年鑑[15]は、国会図書館によりインターネット公開されている。
出典
参考文献
- 発行年順
関連文献
関連項目
外部リンク