水野 忠善(みずの ただよし)は、江戸時代前期の大名。水野忠元の長男。下総山川藩(茨城県結城市)の第2代藩主、のちに駿河田中藩(静岡県藤枝市)、三河吉田藩(愛知県豊橋市)主。三河岡崎藩(愛知県岡崎市付近)初代藩主。忠元系水野家2代。官位は従五位下・大監物。
元和6年(1620年)、父・忠元の死により家督を相続する。寛永7年(1630年)、従五位下大監物に任官。
寛永12年(1635年)、1万石加増され駿河田中藩4万5000石に転封となる。この時大井川の氾濫に対処するため1000貫(1貫は1文銭1000枚)の巨費を投じて「千貫堤」(藤枝市史跡)を築堤したと伝わる[1][2]。
寛永19年(1642年)に三河吉田藩に、正保2年(1645年)に5000石加増され三河岡崎藩5万石に移される。寛文4年(1664年)、弟の忠久に5000石を分与する。隣接する尾張徳川家を仮想敵国とし、軍備増強に注力した。
延宝4年(1676年)に死去、墓所は愛知県知多郡東浦町の乾坤院境内(「水野家四代の墓所」として東浦町史跡)[3]。跡を長男・忠春が継いだ。
父母
正室
子女
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