愛知川宿(えちがわしゅく、えちがわじゅく)は、近江国神崎郡にあった中山道65番目の宿場(中山道六十九次)で、現在は滋賀県愛知郡愛荘町愛知川および中宿。愛知川の東岸に位置する。東海道の土山宿から分岐した御代参街道の、中山道への合流点にあたる。
沿革
古代・中世の愛知川宿
もと愛知川の渡津集落として発展し、東山道の宿場のひとつとなった。1001年(長保3年)には歌人・赤染衛門が、京から尾張へ赴く途中で七夕の晩にこの地に宿泊し、歌を詠んでいる。『太平記』では、1335年(建武2年)京を経った勅使引他九郎や、翌年京に向かう北畠顕家が愛知川宿を経由する。
近世の愛知川宿
江戸幕府道中奉行『中山道宿村大概帳』では、1843年(天保14年)の愛知川宿は家数199軒、旅籠屋28軒、人口929人、町並みは南北5町34間とある。本陣は西澤甚五左衛門が勤め、脇本陣は中田清次郎が問屋と兼帯した。
中山道では、1694年(元禄7年)に作成された助郷帳によって各宿に助郷が定められていた。愛知川宿については、およそ3キロメートル以内に分布する愛知郡の15か村と神崎郡の5村、計20か村が助郷(大助郷)に該当し、さまざまな負担が課せられた。また、彦根藩ではこれらの「大助郷」の下に複数の「小助郷」を置いて負担を分担させる制度があり、彦根藩の領内にあたる大助郷17か村に小助郷が割り当てられた。大助郷・小助郷の村々は、1735年(享保20年)の訴訟をはじめとして、負担軽減を求める行動をたびたび起こしている。しかし1816年(文化13年)には、度々の訴えにもかかわらず負担の大きさが変わっていないとして、藩に対して14か条の仕法を提言した。
1829年(文政12年)に成宮弥次右衛門が愛知川に架橋を計画し、1831年(天保2年)に完成した。旅人から通行料を取らなかったため、無賃橋とよばれた。
名産
江戸時代より愛知川宿は「一渓茶」と称する煎茶の名産として知られ、和菓子文化が広まった。中でも不飲川のほとりで売られていた「越川大福」が人気だった伝えられている。2008年現在、中山道沿いに残る7、8軒の菓子店舗のうちほとんどは愛知川宿に集中している。
最寄り駅
史跡・みどころ
- 宝満寺
- 真宗大谷派の寺院。江戸時代には25の末寺をもち、門内に等覚寺・乗船寺の2寺を塔頭とした。本堂・正門・経蔵・鐘楼・太鼓堂などが残っている。1752年(宝暦2年)から続く蓮如上人御影道中の御上洛(帰路)の定宿(毎年5月7日)。
- 豊満神社
- 神功皇后の軍旗を祀って創建されたと伝えられ、源頼朝をはじめ多くの武将が戦勝祈願をおこなったといわれ、「旗神さん」と親しまれる。鎌倉時代の四脚門は、国の重要文化財。
- 竹平楼
- 1758年創業の旅籠。明治天皇御小休の部屋が保存されている。現在は料亭。国の登録有形文化財。
- 旧田中家住宅
- 1892年から1919年にかけて整備された麻織物商の田源の別邸。現在は料亭(近江商人亭)として営業。国の登録有形文化財。
- 藤居本家
- 1831年(天保2年)から酒造を営む。長野の大隴神社の周辺に酒蔵が並ぶ。1997年の連続テレビ小説「甘辛しゃん」のロケ地。国の登録有形文化財。
- るーぶる愛知川
- 愛知川駅に併設。ギャラリーおよび観光案内所。
- 愛知川びんてまりの館
- 愛荘町立愛知川図書館に併設。びん細工手まりを展示する。
- 近江鉄道愛知川橋梁
- 愛知川にかかる鉄橋(ポニーワーレントラス橋)。1897年(明治30年)英国ハンディサイド製。国の登録有形文化財[16]。
- 武佐宿までの史跡・みどころ
隣の宿
- 中山道
- 高宮宿 - 愛知川宿 - 武佐宿
脚注
参考文献
- 小林博、木村至宏 編『近江の街道』サンブライト出版〈近江文化叢書13〉、1982年3月31日。
- 児玉幸多『中山道を歩く』中央公論新社〈中公文庫〉、1988年。ISBN 4122015561。
- 平凡社地方資料センター 編『滋賀県の地名』平凡社〈日本歴史地名体系第25巻〉、1991年2月20日。ISBN 4-582-49025-5。
- 愛知川町史編集委員会 編『近江 愛知川町の歴史 第三巻 民俗・文献史料編』愛荘町、2008年10月31日。
- 愛知川町史編集委員会 編『近江 愛知川町の歴史 第二巻 近世・近現代編』愛荘町、2010年3月1日。
- 門脇正人『中山道愛知川宿:人々の往来と宿場の情景〈愛荘町歴史文化資料集 第13集〉』、愛荘町立歴史文化博物館、2012年10月。
関連項目
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座標: 北緯35度10分18.7秒 東経136度12分28.3秒 / 北緯35.171861度 東経136.207861度 / 35.171861; 136.207861