後藤 靱雄(ごとう ゆきお、生年不詳 - 1976年)は、兵庫県武庫郡住吉村(現:神戸市)出身[3]のサッカー選手。ポジションはフルバック(現在のセンターバック)。
父はベルギー人であり、倚松庵など住吉村一帯に広い屋敷を所有する家柄であった[3]。また、当時としてはかなりの長身で、特に空中戦とキック力に長けた選手だった[2]。
関西学院大学在学中はサッカー部に所属し、斎藤才三が同級生であり、1929年にサッカー部の主将を務めた。また、関学クラブ(現役学生およびOBによる合同チーム)の一員として、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)および翌1930年2月のア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝に貢献した。
1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場した[4]。
大学卒業後の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会の日本代表に選出。主将として2試合に出場した[5]。1947年には天覧試合となった東西対抗では監督としてコーチの大谷四郎と共に関西チームの指揮を取った。
また、後藤は1936年11月から1943年8月まで倚松庵を作家の谷崎潤一郎に賃貸したが、立ち退き要求から谷崎が実際に退去に至るまで1年間を要したエピソードがある[3]。
1976年に死去したと伝わっている[3]。
この項目は、サッカー選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:サッカー/PJサッカー選手/PJ女子サッカー)。