野澤 正雄[1](のざわ まさお[2]、1906年8月26日-1994年11月18日[要出典])は、広島県出身の元サッカー選手、日本代表選手(全日本)。野澤晁、野澤信韶は実弟。
同級の手島志郎らと共に広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)から1925年、創設間もない旧制広島高校(現広島大学総合科学部)に進学。1926年、東京帝大主催による旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)では、ハーフバック(HB)・主将として1、2年生チームをまとめ準優勝。1928年の第5回大会では優勝に導いた。幅広い動きは当代随一と評され前線の手島らに好パスを供給し、全4試合で合計25得点を挙げる原動力となった。ユニフォームの色から"広高の赤シャツ"と相手チームに恐れられ決勝は8-1と若林竹雄らのいた旧制松山高校(現愛媛大学文理学部)を降した。この年のチームはインターハイ史上最強チームといわれた。
その後、東京帝国大学農学部に進学し、東京大学ア式蹴球部で竹腰重丸、手島、若林、高山忠雄らと関東大学リーグ連覇、東大黄金期に貢献した。また、若林と共に招かれて湘南中学を指導した[3]。
1930年、それまでの単独チームではなく、日本蹴球協会が大掛かりな選考を経て初めて編成した全日本選抜(日本代表)に選出される。ここでもハーフバックとして第9回極東選手権大会(東京)の国際Aマッチ2試合にフル出場し竹腰、手島、若林、竹内悌三ら共に日本の国際大会初優勝に貢献した。
その後の経歴は不明。
野澤晁、野澤信韶(松山高校-京都帝大)は実弟で、兄弟3人が国際大会の代表になった例は他にないという[4]。
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