春山 泰雄(はるやま やすお、1906年4月4日 - 1987年6月17日)は、東京都出身の会社役員、新聞記者、サッカー選手である。
東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、旧制水戸高校に入学。在学中の1927年に開催された第8回極東選手権大会のサッカー日本代表にセンターフォワードとして選出され、8月27日の中華民国代表戦で初出場した[1][4]。なお、同大会の日本代表は早大WMWを母体に構成されていたが、水戸高校の春山と近藤台五郎は「関係者」として国内予選時より早大WMWに参加していた[5]。
水戸高校を卒業後は東京帝国大学に入学し、ア式蹴球部に入部。竹腰重丸、竹内悌三、手島志郎らと東大黄金時代を築いた。また、在学中の1930年5月に開催された第9回極東選手権大会の日本代表に左ウイングとして選出されて、全2試合に出場した[1][6]。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業した[7]。
1946年に日刊スポーツ新聞社に入社。編集局次長、編集局長代理を経て、1952年11月に同社の取締役(兼編集局長)に就任した。その後も販売担当、業務局長などを歴任。日刊スポーツ出版社の代表取締役も務めた[7][3]。
1987年6月17日、東京都豊島区で消化管出血により死去した[3][7]。
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