尾身 茂(おみ しげる、1949年〈昭和24年〉6月11日 - )は、日本の医師、医学者(地域医療・感染症・国際保健)、厚生官僚、国際公務員。医学博士(自治医科大学・1990年)。東京都出身。
独立行政法人地域医療機能推進機構の初代理事長、世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局名誉事務局長、自治医科大学名誉教授を歴任し、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード構成員、新型インフルエンザ等対策閣僚会議新型インフルエンザ等対策有識者会議会長兼新型コロナウイルス感染症対策分科会長も務めた[1]。
東京都立墨東病院や伊豆諸島の診療所での勤務を経て、自治医科大学医学部助手となり、厚生省保険局医療課に勤めたのちWHO西太平洋地域事務局事務局長(第5代)、自治医科大学地域医療学センター教授、WHO執行理事、独立行政法人年金・健康保険福祉施設整理機構理事長(第2代)、世界保健総会(英語版)会長なども務めた。
概要
医師であるとともに、地域医療、感染症、国際保健などを専門とする医学者でもある。自治医科大学卒業後、地域医療の現場で医師として活動したのち厚生省を経て世界保健機関(WHO)に入る。西太平洋地域での急性灰白髄炎(ポリオ)根絶に向けたプロジェクトを指揮し[2]、根絶後はWHO西太平洋地域事務局の事務局長に就任する。西太平洋地域事務局長在任中、イ・ジョンウク(リー・ジョンウォック)WHO事務局長の急逝に伴う後任事務局長選挙の候補者に日本国政府から擁立されるも[3]、落選。西太平洋地域事務局長退任後は、自治医科大学で教鞭を執った。その後、年金・健康保険福祉施設整理機構や地域医療機能推進機構の理事長を務めた。厚生労働省顧問、名誉WHO西太平洋地域事務局長、自治医科大学名誉教授、内閣府「野口英世アフリカ賞」委員会委員、NPO法人「全世代」代表理事といった各種役職も兼任した。
2019年の新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、新型コロナウイルス感染症対策本部の下に新設された新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の副座長を務めた。新型インフルエンザ等対策閣僚会議の新型インフルエンザ等対策有識者会議においては会長を務め、基本的対処方針等諮問委員会の委員長も兼務していたことから[4]、新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言の妥当性について新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づき審議した[注釈 1]。2022年12月12日には自らも感染していたことが判明した[5]。
来歴
生い立ち
1949年(昭和24年)6月11日、東京生まれ。尾身の父親はクレーン運転士[6]。東京教育大学附属駒場高校に進学したが[7][注釈 2]、American Field Serviceの交換留学生に選ばれ[7]、在学中の1967年(昭和42年)からアメリカ合衆国に留学した[7]。アメリカ合衆国では、ニューヨーク州セントローレンス郡ポツダム町の高校に通った[7]。1968年(昭和43年)の夏に日本に帰国したが[8]、当時の日本は学生運動が激化していた時期であり[8]、志望していた東京大学も東大紛争の煽りを受け入学試験を中止する事態となった[8]。これを受け、1969年(昭和44年)に慶應義塾大学法学部法律学科に進学した[7]。当初は外交官や商社マンになりたいと考えていたが[8]、医学者である内村祐之の『わが歩みし精神医学の道』に衝撃を受け[8]、医学部再受験を志す[8]。1971年(昭和46年)、慶應義塾大学を中途退学する。自治医科大学が新設されるとの報を聞き[8]、日本の地域医療のメッカを目指すという同大学の方針に賛同し[8]、第一志望とする[8]。1972年(昭和47年)4月、自治医科大学医学部に1期生として入学した[7][8]。1978年(昭和53年)、同大学を卒業した[7]。
医師、医学者
大学卒業後は東京都立墨東病院に研修医として勤務したのち[7]、東京都の伊豆七島を中心とする僻地・地域医療に従事した[7]。自治医科大学で医学部の助手となり[7]、予防生態学を受け持った[7]。1990年(平成2年)には、B型肝炎の分子生物学的研究により医学博士号を取得。
官界
厚生省で技官となり、保険局の医療課に勤務した。フィリピン共和国のマニラ都マニラ市に所在する世界保健機関(WHO)の西太平洋地域事務局に入り[7]、感染症対策部の部長等を歴任した[7]。域内の感染症制圧に尽力し、WHOは西太平洋地域からのポリオ根絶を達成した。これらの実績が評価され西太平洋地域事務局の事務局長候補に推され、3期目を目指していた韓相泰(朝鮮語版)を破り初当選を果たす。1999年(平成11年)、WHOの西太平洋地域事務局で、第5代事務局長に正式に就任した[7]。西太平洋地域事務局長在任中の2006年、イ・ジョンウク(リー・ジョンウォック)WHO事務局長の急逝に伴う後任事務局長選挙の候補者に日本国政府から擁立されるも[3]、中国が推薦した(香港出身の)マーガレット・チャンWHO事務局長補(感染症担当)に敗れ落選した[9][10][11]。西太平洋地域事務局長退任後、WHOより西太平洋地域事務局の名誉事務局長の称号が贈られた。
退官後
日本に帰国後、2009年(平成21年)から自治医科大学地域医療学センター教授[7]を務め、世界保健機関の執行理事を兼任した[7]。2012年(平成24年)4月に独立行政法人年金・健康保険福祉施設整理機構理事長に就任した[7][12]。同機構が地域医療機能推進機構へ改組するにあたり、準備の陣頭指揮した。2014年(平成26年)4月、地域医療機能推進機構が発足すると、引き続き理事長に就任した[7]。その傍ら、様々な役職を兼任していた。2012年(平成24年)8月、新型インフルエンザ等対策閣僚会議の下に新型インフルエンザ等対策有識者会議が新設されると[13]、会長を兼任した[4]。新型インフルエンザ等対策有識者会議の下に置かれる基本的対処方針等諮問委員会においては[14]、その委員長も兼任した。そのほか、2013年(平成25年)5月に開催された世界保健総会(英語版)で会長を務めた[15]。2020年(令和2年)2月14日に、新型コロナウイルス感染症対策本部の下に新設された新型コロナウイルス感染症対策専門家会議[16]で副座長を兼任した[17][18]。2022年3月25日、後藤茂之厚生労働大臣は尾身が3月末で地域医療機能推進機構の理事長を退任すると明らかにした[19]。
業績
尾身の業績の一つは、西太平洋地域において急性灰白髄炎(ポリオ)の根絶を指揮したことである[20]。この業績により、1998年の世界保健機関 (WHO) 西太平洋地域事務局事務局長選挙に日本政府から擁立され、当選。その後、再選され約10年間務めた。在任中は重症急性呼吸器症候群(SARS)対策で陣頭指揮を執った[21]。これら(「アジア地域における感染症対策等の陣頭指揮」「東アジアを含む西太平洋地域からポリオを撲滅する上で発揮した指導力」「SARS勃発の際の迅速・機敏な対応」)を評価され[3]、西太平洋地域事務局長在任中の2006年5月、イ・ジョンウク(リー・ジョンウォック)WHO事務局長の急逝に伴う後任の事務局長を選出する選挙の候補者に日本国政府から擁立されるも[3]、中国が推薦した(香港出身の)マーガレット・チャン世界保健機関事務局長補(感染症担当)に敗れ落選した[9][10][11]。 2009年2月、母校の自治医科大学教授に就任し後進の指導にあたった。
2009年新型インフルエンザパンデミックの際、政府の新型インフルエンザ対策本部専門家諮問委員会の委員長に任命された。既に政府によって始められていた水際作戦から、重点を地域感染対策に移すべきこと、パンデミック初期には広範に学校閉鎖を実施すべきこと、ワクチンの優先接種グループなどについて提言した[22]。
2014年からは、日本初の新たな医薬品や診断キットの国際的普及を目指した官民学一体の「アジア・アフリカ感染症会議」議長を務めている。
2016年、国際的な公衆衛生危機対応タスクフォースメンバー(国連議長からの要請)。
略歴
賞歴
著作
論文・報告書
著作
関連書籍
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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