小田 俊与(小田 俊與、おだ としよ、1907年〈明治40年〉1月20日 - 不詳)は、沖縄県(自称は広島県)出身の洋画家、彫刻家、作詞家、政治ゴロ、反核運動家、特殊株主。『世界タイムス』『全東京新聞』[注 1]発行人、『政治大学校』参与、『東北・北海道開発期成会』会長。日本選挙史上最多の立候補歴を誇る。「選挙魔」[1]の異名があった。
山下新太郎(文化功労者)に師事し、第一美術協会会員として芸術活動を展開しながら詩人・作詞家としても活動。その傍ら、日中戦争期より地元沖縄で右翼運動を活発化し、上京後は出版界で軍部の意を受けた世論工作を展開。1942年頃には『日本新國策研究所主宰』の肩書きで東條英機の取り巻きをしていたといい、東條や近衛文麿を英雄視し礼讃する著書や、戦時歌謡(下記)を数多く手掛けている。
実兄はアナーキスト出身で、戦前に沖縄県選出の衆議院議員(社会大衆党)を務めた小田榮。戦後、榮はGHQから公職追放となる[2]。俊与はその解除後の1951年(昭和26年)4月の東京都知事選挙を端緒に、ゲリラ的選挙闘争を開始。全国主要都市の首長選挙のみならず国政選挙や、供託金制度がなかった昭和20〜30年代の各地の町村長選挙に至るまで、願書を書留速達郵便で予告なく送り付け、抜き打ち的かつ五月雨式に連続立候補した[注 2]。
しかし、立候補はするものの具体的な選挙運動を行わないばかりか、現地に姿すら現さぬ場合がほとんどであった[3]。地方自治体の長の選挙では当該地方自治体の住民でなくても立候補はできたが、住民ではないために選挙権はなく、候補者である小田が自分自身に投票できず、実際には得票数0の場合さえあった[注 3]。国政選挙においては、まだ非合法のレッテルが抜け切らなかった日本共産党や、小田と同じゲリラ選挙闘争手法を用いた肥後亨より得票したこともあった。
したがっておおむね、候補者が定数内で無投票当選が予定されて安閑としていた地方自治体に、突然の選挙実施にかかる費用と労苦、そして混乱を強いるのみの結果に終始していたがゆえに、原水爆反対という高邁で一貫した主張にもかかわらず[注 4]、「幽霊候補」と呼ばれ関係者からは白眼視されていたという[4]。
その一方で、小田自身は泡沫候補と呼ばれることに強い抵抗感を抱いており、小田の出馬行動を批判的に書いた地方・地元新聞を、訴訟を匂わす発言をするなどして脅しをかけたこともある。
これらの行為に対して当時は明確な禁止規定に欠け、通信手段も未発達だったため、未然に却下できなかった掛け持ち出馬分までも含めると、累計立候補回数は500余にのぼった[注 5]。この闇雲とも言える小田の無投票阻止・売名目的の無差別連続立候補活動は国会の場でも問題化し、1964年に立候補の届出は郵送を禁止し、選挙管理委員会への直接持ち込みに限定する旨の公職選挙法改正の一因になった[9]。
特殊株主としても著名で、日本航空を執拗に糾弾する紙爆弾を発行していた。その影響かは不明だが、世界タイムス社の事務所であった品川区のマンション一室の扉に、銃弾が撃ち込まれたことがあった[10]。一時期、本籍を静岡市内に置いており、また昭和末期の総会屋稼業時の発行冊子所在地は、函南町にあった。詩人としての活動も続け、詩集「覚えはない」などの散文詩集を発表している。