小坂 敏彦基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
香川県木田郡牟礼町(現:高松市) |
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生年月日 |
(1947-09-17) 1947年9月17日(76歳) |
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身長 体重 |
172 cm 69 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1969年 ドラフト1位 |
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初出場 |
1970年7月24日 |
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最終出場 |
1976年10月4日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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小坂 敏彦(こさか としひこ、1947年9月17日 - )は、香川県木田郡牟礼町出身で[1]、読売ジャイアンツと日拓ホームフライヤーズ(日本ハムファイターズ)に所属したプロ野球選手(投手)である。
来歴・人物
小学5年の時に野球を始め、中学から投手となる[1]。高松商業高校では、3年次の1965年にエースとして春夏連続で甲子園に出場した。春の選抜大会では、2回戦で米子東高校打線を完封すると、次の準々決勝でもPL学園打線も2点に抑え快勝。準決勝で藤田平らがいた市和歌山商業高校に1-3で敗れたが、ベスト4入りを果たす。同年の夏の甲子園では優勝候補に挙げられたが、1回戦で三池工業高校の上田卓三との延長13回に及ぶ投げ合いの末、1-2xとサヨナラ負けを喫した[2]。三池工業はその後勝ち進み、「初出場初優勝」という快挙を成し遂げている。
高校卒業後は早稲田大学に進学するが、2年生までは制球に苦しんだ[3]。3年生になった1968年の東京六大学野球の秋季リーグで、早稲田は田淵幸一らを擁した法政に競り勝ち、4シーズンぶり通算24回目の優勝を飾る[4]。エースとして先発にリリーフに大車輪の活躍を見せた小坂は、優勝が懸かった最終週の早慶戦で2試合を投げていずれも完投勝ちし「胴上げ投手」となるなど、7勝を挙げてベストナインを獲得[3]。翌1969年の第8回アジア野球選手権大会日本代表に選出される。リーグ通算36試合登板、22勝6敗、防御率1.68、218奪三振。大学同期には谷沢健一・荒川尭・小田義人などがおり、後に7人がプロ入りした。
1969年のドラフト会議で、読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団。プロ1年目の1970年7月24日の対大洋ホエールズ戦で救援で初登板すると、28日の対中日ドラゴンズ戦で1点ビハインドの6回裏に救援登板し7回まで無失点に抑えると、直後に巨人が逆転して初勝利を挙げる。しかし、シーズンではこのは1勝に終わる。2年目からは2勝、4勝と勝ち星を増やした。1972年は6月末までに4勝1敗、防御率2.20と好成績を挙げ、オールスターゲームのファン投票でもかなりの票を集める。しかし、7月の北海道遠征を経て、環境の激変により体調を崩して全く勝てなくなってしまい、8月下旬以降は登板機会もなかった[5]。
4年目のシーズンに備える1973年春季キャンプの1週間前に、高橋善正との交換トレードで渡辺秀武と共に日拓ホームフライヤーズへ移籍した。だが、この頃すでに肘に違和感を抱えており、思い通りの投球ができずにいた。1975年には2セーブを記録し、1976年に4年ぶりの勝ち星を挙げたが、活躍できず同年オフに引退[6]。引退後はアクセサリー販売会社を経て、保険会社に勤務した[1]。
選手としての特徴
小柄ながらオーバーハンドから投げ下ろす本格的なフォームから繰り出す速球やカーブに鋭い切れがあったが、精神面に起因する制球難があった[7]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1970
|
巨人
|
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
-- |
-- |
.500 |
34 |
8.0 |
4 |
1 |
7 |
0 |
0 |
4 |
1 |
0 |
5 |
4 |
4.50 |
1.38
|
1971
|
17 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
2 |
-- |
-- |
.500 |
154 |
36.0 |
26 |
6 |
19 |
0 |
1 |
34 |
1 |
0 |
22 |
22 |
5.50 |
1.25
|
1972
|
23 |
8 |
1 |
0 |
0 |
4 |
4 |
-- |
-- |
.500 |
300 |
70.0 |
66 |
9 |
31 |
1 |
0 |
40 |
0 |
0 |
31 |
30 |
3.86 |
1.39
|
1973
|
日拓 日本ハム
|
7 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
-- |
-- |
.000 |
47 |
12.0 |
4 |
2 |
11 |
0 |
2 |
6 |
0 |
0 |
5 |
4 |
3.00 |
1.25
|
1974
|
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
13 |
2.1 |
5 |
3 |
1 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
6 |
6 |
27.00 |
2.57
|
1975
|
26 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
-- |
---- |
52 |
12.0 |
12 |
1 |
6 |
0 |
0 |
8 |
1 |
0 |
7 |
6 |
4.50 |
1.50
|
1976
|
22 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
-- |
1.000 |
130 |
30.2 |
33 |
4 |
14 |
0 |
0 |
15 |
1 |
0 |
18 |
18 |
5.23 |
1.53
|
通算:7年
|
105 |
12 |
1 |
0 |
0 |
9 |
8 |
2 |
-- |
.529 |
730 |
171.0 |
150 |
26 |
89 |
1 |
3 |
110 |
4 |
0 |
94 |
90 |
4.74 |
1.40
|
- 日拓(日拓ホームフライヤーズ)は、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
記録
- 初登板:1970年7月24日、対大洋ホエールズ12回戦(川崎球場)、8回裏無死から4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初勝利:1970年7月28日、対中日ドラゴンズ11回戦(中日スタヂアム)、6回裏1死から4番手で救援登板、1回2/3無失点
- 初先発:1971年7月15日、対阪神タイガース16回戦(後楽園球場)、6回2/3を1失点で敗戦投手
- 初先発勝利:1972年5月31日、対ヤクルトアトムズ10回戦(後楽園球場)、8回2/3を2失点
- 初安打:1972年6月18日、対ヤクルトアトムズ14回戦(後楽園球場)、6回裏に杉山重雄から単打
- 初完投:1972年6月23日、対ヤクルトアトムズ15回戦(明治神宮野球場)、9回2失点で勝利投手
- 初セーブ:1975年8月15日、対南海ホークス17回戦(大阪スタヂアム)、8回裏2死から救援登板、1/3回無失点
背番号
- 13 (1970年 - 1971年)
- 24 (1972年 - 1976年)
脚注
- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、217ページ
- ^ [1]
- ^ a b 『巨人軍に葬られた男たち』65頁
- ^ [2]
- ^ 『巨人軍に葬られた男たち』181頁
- ^ [3]
- ^ 『巨人軍に葬られた男たち』64頁
参考文献
- 織田淳太郎『巨人軍に葬られた男たち』新潮文庫、2003年
関連項目
外部リンク