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この項目では、兵庫県にあった港について説明しています。漫画家の大輪田泊については「秋月ひろずみ」をご覧ください。 |
大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい[1]、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた[1]。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた[1]。
現在でも漢字表記は異なるものの「和田岬(わだみさき)」として名が残っている。
立地
大輪田泊は、和田岬の東側にいだかれて天然の良港をなし、奈良時代から瀬戸内海を航行する際の要津であった[1]。和田岬は、六甲山地から現在の大阪湾に流下する湊川・苅藻川・妙法寺川によって運ばれた土砂が、さらに潮汐によって集積して形成された砂嘴であった。
沿革
摂播五泊
大輪田泊は、延喜14年(914年)の三善清行の『意見封事』に、奈良時代に大僧正行基が築いたとして記される五泊のひとつである[1]。五泊は東より、
いずれも摂津から播磨にかけて所在するため、「摂播五泊」とも称される。
なお、「大輪田」の地名は津泊の意におこるとも理解されており、上記の河尻泊の所在した摂津国・神崎川の河口にも「大和田」の地名があるのをはじめ日本列島各地に同様の地名がのこり、そうしたなかで単に「大輪田」といえば概ね務古水門のことをさすのは、この地が古くから最重要港湾として認められていたことを示しているとも考えられる[1]。
造大輪田船瀬使
平安時代には、『日本後紀』の弘仁3年(812年)6月条に大輪田泊修築のことが記されるのをはじめ、造大輪田船瀬使がおかれ、防風と防波を兼ねて石の堤(石椋)を築くなど、たえず修築がおこなわれ、その経費を充当するため勝載料もしくは船瀬庄田稲を徴収していたことのあったことが各種の文献資料で確認されている[1]。とくに、泊の西方向には和田岬があって西風の波浪には安全であったが、南東方向は海にひらけており南東風のため諸船がしばしば難破した。そこで国費で船瀬(船だまり)をつくって修理が加えられたが、律令国家の衰えとともに修築はおこなわれなくなり、放置されるようになった。
平清盛の大修築と福原遷都
鳥羽院の信任の厚かった平忠盛は、後院領荘園(天皇の隠居所の所領)であった肥前国神埼荘[注釈 1]の知行を通じて日宋貿易を開始し、舶来品を院に進呈して近臣としてみとめられるようになった[3]。その際、対外交渉を統括する大宰府が、これを越権行為として批判したが、忠盛は院宣によりこれを抑えた[3]。
忠盛の子、平清盛は安芸守、播磨守、大宰大弐[注釈 2]を歴任し、平治元年(1159年)の平治の乱ののちに平氏政権を成立させた。清盛は勢力基盤であった伊勢で産出する銀などを輸出し、安芸の音戸瀬戸を開削するなど瀬戸内航路を確保し、さらに大宰府の対外交渉権の接収をおこなった。
応保2年(1162年)、清盛は福原のある摂津八部(やたべ)荘を手に入れた。このとき、あるいはそれに先だって大輪田泊もかれの管轄下に入ったものとみられる。大輪田泊の重要性を深くみとめた清盛は、上述したように、従来、南東風による風浪が港湾施設を破壊することが多かったため、湊の前面に人工島を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事に着手した[4]。最初の工事は応保2年2月、清盛権中納言のときに開始されたが、同年8月に大風があり、工事はそのため水泡に帰した[4]。
翌長寛元年(1163年)3月に工事を再開したが、難工事であったため、その際さまざまな伝説が生じている[4]。もう少しで工事完成というそのときに日が暮れそうになったため、清盛が沈む太陽を招き返した、あるいは、人柱を沈めてから工事をしようという意見をしりぞけて、諸人に一切経の経文を書かせた石を沈めて基礎とした、そのため、この人工島を「経が島」と称した、などというものである[4]。
仁安3年(1168年)、清盛は出家[注釈 3]して「浄海」と名乗ったのち摂津福原に別荘(福原山荘)をかまえ、常時ここに住んで周辺一帯を経営した[注釈 4]。これは、大輪田泊を利用して外国貿易をおこなうのに便利な地を選んだものと思われる。嘉応2年(1170年)、大輪田泊にはじめて宋の船が停泊した。後白河法皇は清盛の招きで福原の清盛別荘をしばしば訪れ、宋人に引見している[2][6][注釈 5]。
承安2年(1172年)、中国明州(寧波)の地方官より、後白河法皇と清盛に国書と贈り物がとどいた[6]。翌承安3年(1173年)、清盛は答礼使を派遣し、また、後白河院からは大輪田泊までの商船通航許可を得て宋の商船に瀬戸内海を航行させ、また、後白河院が宋の使者に答物[注釈 6]を贈ったことによって、宋とのあいだに正式に国交が開かれて日宋貿易が拡大した[6]。清盛らが大量に輸入した宋銭は、一時は物価騰貴を起こし、貨幣経済の発展をうながすなど中世の日本経済に大きな影響をあたえた[注釈 7]。承安4年(1174年)、推定面積37ヘクタールの人工島経が島が竣工し、翌1175年には修築工事を終えた。経が島の工事責任者は、平氏水軍の中核をなす阿波国の豪族田口成良であった。清盛はまた、治承3年(1179年)に『太平御覧』を購入して人に書写させ、写本は手元において、印刷本(摺本)は女婿にあたる高倉天皇に献上するなど、新知識の導入にも努めた[8]。清盛はこの年の11月、軍事クーデターをおこし、後白河法皇を幽閉、反対派を一掃した[9]
治承4年(1180年)2月に譲位して上皇となった高倉の最初の社参が、その年の3月から4月上旬にかけて、従来の慣例[注釈 8]を破って安芸の厳島神社でおこなわれた[注釈 9]。また、この年の春には大輪田泊のあらたな改修が計画された。それまでの改修が平家の私財によったのに対し、今回の計画は国家権力をあげてのものとなった。
この年の6月、平清盛の主導により、まだ3歳の新帝安徳天皇、父高倉上皇、祖父後白河法皇の福原行幸がおこなわれ、行宮もその地に置かれた。清盛は福原に隣接する大輪田の地に「和田京」の造営を計画し、国々の功力による大輪田泊の永久的修築をも企図した[1]。整備なった大輪田泊をそのうちに取り込む「和田京」造営計画[注釈 10][注釈 11]は地形的制約もあって計画のみに終わったが、清盛は、大輪田泊を見下ろす山麓に福原京を築いて遷都を強行した[11]。高倉上皇や平家一門の反対もあったが、それを押し切っての遷都であり、約半年後の京都還都まで、清盛の福原別邸が天皇の内裏となり、「本皇居」と称された[注釈 12]。これについては、清盛は延暦寺・園城寺・興福寺など寺社勢力の干渉を避けるためとも、また、宋との貿易拡大によって海洋国家、西国国家の樹立を目指していたとも指摘される[11]。
大輪田泊の永久的修築の計画は源頼朝・源義仲の挙兵にはじまる内乱とそれにつづく平氏の失権により中絶してしまったが[1]、福原京に建てられた建造物群もまた治承・寿永の乱のなかで源義仲によって全て焼き払われた。
鎌倉時代以降
平氏政権滅亡後の鎌倉時代には日宋間の正式な国交はなかったが、鎌倉幕府は民間貿易を認め、文治元年(1185年)に九州に設けられた鎮西奉行は、博多を統治して幕府からの御用商船を宋へむけて派遣することとした。清盛による大輪田泊の修築工事も2度にわたっておこなわれたが、中絶を余儀なくされていた。
建久7年(1196年)、東大寺の僧・重源は、大輪田泊の修築事業の中絶とその後の泊の損壊状況を嘆き、山陽道・南海道・西海道の諸国および荘園からこの港を経て運ばれる運上米のうち1石あたり1升を徴収し、三道の一郡一荘それぞれから船1艘を課し、和泉・摂津・播磨・備前・備中・紀伊・伊勢・淡路・讃岐・阿波の計10か国の海岸に漂着して破損した船を没収、また、山城・河内・摂津・播磨・淡路の5か国の公田・荘園の竹木を伐採し、さらに摂津・播磨・淡路の民家から人夫を徴用して、河尻泊・魚住泊とともにこの泊を修築することを奏請した[1]。重源のこの意見はみとめられて上記諸国には太政官符が下った[1]。
重源が修築事業に乗り出したのは、かれが大勧進として尽力していた東大寺復興事業にこれら港津を利用することが多かったためと思われる[1]。その成果の詳細は不明であるが、鎌倉時代には国内第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」「兵庫島」あるいは「兵庫経島(ひょうごきょうじま)」と呼ばれるようになり、当時の兵庫津のようすは絵巻物『法然上人絵伝』や『一遍聖絵』にも描かれている。
日宋貿易は南宋代の終わりまで行われ、幕府の執権を代々つとめた北条氏も臨済宗を保護したため、宋の禅僧も数多く貿易船に便乗して来日し、モンゴル帝国による南宋攻撃が本格化してからも往来は継続した。流通経済の発達で国内の水運がさかんになると、荘園からの年貢減少に苦しむ大寺社ではその維持のために船から関銭を徴収することとした。南北朝時代の兵庫津には、東大寺領の北関と興福寺領の南関が設けられていた。
室町時代にはいると、兵庫津は足利義満による日明貿易の拠点となり、遣明船の発着港としてにぎわったほか、朝鮮王国や琉球王国の船も来航して再び国際貿易港としての地位を得た。1379年のリューベック『輸出入関税記録』によれば、ハンザ同盟に属した北ドイツ有数の港湾リューベック港に出入りした船舶は年間約400艘におよんだが、1444年の兵庫湊では大小2,500艘の船が出港・入港しており、瀬戸内海沿岸の物資の流通規模が当時すでに巨大なものとなっていたことがうかがわれる[13]。
江戸時代には西廻り航路における国内航路の要津として栄えた。安政5年(1858年)の日米修好通商条約においては、新潟、長崎、神奈川(横浜)とともに開港場に指定されている。
脚注
注釈
- ^ 佐賀平野の穀倉地帯。忠盛のあとには信西が神埼荘を知行した。信西は「遣唐大使」を夢みてみずから中国語を習い、保元の乱で藤原頼長の所領が没収されたのちは陸奥国本良荘・高鞍荘など金を年貢とする荘園をも合わせた[2]。信西没落後は、清盛がその跡を継承した[2]。
- ^ 清盛の大宰大弐任官は保元3年(1158年)。当時大弐本人は赴任しないという慣例があったが、仁安元年(1166年)には、弟の平頼盛が現地に赴任している[4]。
- ^ 清盛の対宋積極策は出家によって天皇を頂点とする世俗の政治社会秩序にとらわれない自由な立場と深いかかわりがある。出家者は日本国王(天皇)の臣下ではないから、陪臣(臣下の臣下)とは外交をおこなわないという中国側の大原則にも抵触しない[5]。
- ^ 妻の弟平時忠を検非違使別当として京都の制圧にあたった。
- ^ 『百錬抄』および『玉葉』の嘉応2年(1170年)9月20日条にも法皇が福原に御幸して宋人と会う記事が載っている。この時代、外国人が天皇と接見することは宇多天皇の寛平御遺誡で禁止された行為と認識されていた。このため『玉葉』の筆者九条兼実は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と批判している[6]。宇多の寛平御遺誡には「外蕃之人必可召見者。在㆓簾中見之。不可直對耳。李環朕已失之。(異国の者と会う時に直接会ってはならず、必ず御簾の中から見るようにしなさい。直接会話してはならない。李環と会ったことは朕の誤りであった)」とあり、厳密には外国人との面会そのものを禁じた文言ではない。ただし、平安時代後期以降には宇多の子である醍醐天皇が、高麗の占い師を宮中に入れて占わせたという話が広まっており、『古事談』ではこの際に醍醐天皇の声が小さいことを国情に合うと評されたという逸話とされている。こうしたこともあり、この時代には宇多の遺誡は宮中に外国人を入れること自体を禁じたものと認識されるようになっていた[7]
- ^ 答進物としては後白河院からは色革30枚を納めた蒔絵の厨子1脚と砂金100両を納めた手箱1、清盛からは剣一振と武具を納めた手箱があった[6]。黄金100両は奥州の金であろうと考えられる[2]。
- ^ 治承3年(1179年)には「銭の病」という奇病が流行している[2]。
- ^ これまでの例では最初の社参は石清水八幡宮か賀茂社、春日大社あるいは日吉大社などであり、遠い厳島を選んだのは異例のことであった。竹内理三は、高倉上皇の社参を、清盛の心をやわらげ、後白河法皇を幽閉の状況から救わんとする願いから発したものと解釈している[10]。
- ^ 厳島参詣は華やかなものであったが、これに対する延暦寺・園城寺・興福寺の反発は激しく、それを背景に同年4月、以仁王や源頼政が反平氏の兵を挙げている[10][11]。
- ^ かつては喜田貞吉による山陽道を正中線とする新京プランが提起されたが、足利健亮は喜田案には疑問ありとして、他の都城同様南北線を正中線とする和田新京プランを想定している[12]。
- ^ 新都の地割にあたったのは藤原実定・源通親・藤原行隆らであった。
- ^ 高倉上皇は当初福原の平頼盛の邸宅に入ったが、のちに平重衡の邸に移った。後白河法皇は、平教盛の邸に居住した。摂政藤原基房は安楽寺の別当安能(あんのう)の房を宿所と定めた。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク