大山 健二(おおやま けんじ、1904年2月8日 - 1970年)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名は大山 健治(おおやま けんじ)[2]。1920年代から1930年代にかけての松竹蒲田撮影所、松竹大船撮影所の映画において、大柄な体格にお人よしの学生がハマリ役であり、その姿は「松竹の青春娯楽映画の好ましい彩り」と評された[1]。
1904年(明治37年)2月8日、福島県田村郡三春町に生まれる[1][3][7]。姉の孫にあたる人物に高崎俊夫がいる[12]。
旧制小学校を卒業後、両親とともに日本統治時代の朝鮮の京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)に移り[2]、旧制・京城薬学専門学校(現在のソウル大学校薬科大学)を卒業し、病院に勤務した[1][2][3]。同校卒業後、東京に移り[2]、1925年(大正14年)、東京の松竹蒲田撮影所が「俳優募集」をしていることを知り、これに応募して、同撮影所の研究所に入る[1][2][3]。同研究所卒業後、同社に入社、翌1926年(大正15年)3月12日に公開された大久保忠素監督のサイレント映画『愛の力は雪でも溶す』に出演して、映画界にデビューした[1][2][4][5]。1932年(昭和7年)1月9日、若水絹子、澤蘭子、江川宇礼雄、飯塚敏子、富士龍子とともに準幹部に昇格[13]、同年1月29日に公開された成瀬巳喜男監督の『女は袂を御用心』で主演した[4]。1936年(昭和11年)1月15日、同撮影所は、全機能を神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)に新設された松竹大船撮影所(現存せず)に移転、それにともなって、大山も異動した[1][4][5]。
第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)には松竹を退社して、フリーランスとなる[1]。同年3月23日に公開されたマキノ正博監督の『不沈艦撃沈』が所属時の映画出演の最後であり[4][5][7][11]、同年9月に「松竹大船連」として、京都座の時局笑篇『プロペラ一家』に岡村文子とともに舞台実演したのが、記録に残る所属時の最後の仕事である[14]。
戦後まもなくから東宝・新東宝中心に出演する[1][4][5]。1957年(昭和32年)に大映東京撮影所に入社、脇役として多くの映画に出演した[1][4][5]。1959年(昭和34年)には、フジテレビジョンが製作・全国ネット放映した単発テレビ映画シリーズ『東芝土曜劇場』に出演しているが、その後、テレビ映画への出演は少なく、ほかには同社のテレビ室(現在の大映テレビ)が製作した連続テレビ映画『ザ・ガードマン 東京警備指令』(1965年)、『土曜日の虎』(1966年)にそれぞれゲスト出演したのみである[10]。1969年(昭和44年)4月19日に公開された臼坂礼次郎監督による『ある見習看護婦の記録 赤い制服』が、記録に残る最後の出演作となった[4][5][7][11]。
1970年(昭和45年)に死去したという[12]。満66歳没。
すべてクレジットは「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[4][5]。
すべて製作は「松竹大船撮影所」、特筆以外すべて配給は「松竹キネマ」のち「松竹」、特筆以外すべてトーキーである[4][5]。
下記の通りである[4][5][7]。
特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、すべて配給は「大映」である[4][5][7]。
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